ヒューゴ・ダメット(Hugo Dummett)

不毛の大地を開拓する不屈の探検家

ヒューゴ・ダメット Hugo T. Dummett(1940–2002)はカナダの北西準州の不毛な土地でチャールズ・フィプケ氏、スチュアート・ブラッソン氏と共にエカティ・ダイヤモンド鉱山を発見した。探鉱家、鉱物探査地層学者。

1964年にウィットウォータースランド大学で学士号を取得し南アフリカで鉱物探査地質学者をしていたダメット氏は、1965年にカナダに移りました。1970年クイーンズランド大学に入学、最初の探鉱地アフリカのボツワナでオラパ鉱山を発見した後、1977年にダメット氏は地下資源採掘企業スーペリアオイルと契約して北米でのダイヤモンド鉱山の発見を目指してプロジェクトを発足します。
これは、ダイヤモンド指標鉱物(パイロープガーネット、クロムダイオプサイド、クロマイト)を調査してダイヤモンドの探査を行うというスタイルで行われました。ボツワナでの成功を受けてダメット氏のプロジェクトは地質学者チャールズ・フィプケ氏をプロジェクトに雇入れます。プログラムの早い段階で、ダメット氏とフィプケ氏1979年から1982年の間に北米カナダで少なくとも20本のキンバーライトパイプを見つけましたが、商業用ダイヤモンドの可能性はありませんでした。

発見困難ダイヤモンドを含むかキンバーライトパイプ

ダイヤモンドを含むキンバーライトパイプの出現確率は600分の1と言われています。しかし、ダイヤモンドの指標鉱物を発見するだけではダイヤモンドにたどり着くことに成らない事はこの時まで誰にもわかりませんでした。判っていることは南アフリカでのダイヤモンドパイプ発見のノウハウが余り通用しない事でした。

ランオブマインはダイヤモンド原石で産地特定できる

その後、フィプケ氏とダメット氏のプロジェクトは南アフリカの地球化学者であるジョン・ガーニー氏による研究プログラムに資金を提供し、ダイヤモンドを含むキンバーライトパイプのより正確な情報を研究しました。 1982年までに、ガーニー氏はキンバーライト内に産出するパイロープガーネット “G10″がダイヤモンドの発見に不可欠であることを発見します。
この頃の地層学では先行して見つかった南アフリカでの成功事例からガーネットがダイヤモンドの指標鉱物とされていましたが正確には”クロムを豊富に含んだ低カルシウムのパイロープガーネット”が重要だったという事をガーニー氏の研究チームが解明します。
この新技術を使用したフィプケ氏とダメット氏のプロジェクトはボツワナ東部で有望なキンバーライトパイプを発見していました。オラパと呼ばれる商業用ダイヤモンド鉱床はダイヤモンドのシンジケートを運営するデビアスの巧みな経済交渉によって買収されます。オラパの発見はその後カラハリ砂漠の再調査に繋がりそれによって現在のジュワネング鉱山発見される事になります。

北米カナダでは極限的な過酷な自然環境が容易に人を寄せ付けず、ダイヤモンドの調査は困難を極めました。スポンサー企業との橋渡しをしていたダメット氏ですが、遅々として進まないダイヤモンド探索にスポンサーが離れてしまい、ダイヤモンド探索を続ける事が困難となります。資金が底を尽きフィプケ氏とダメット氏のプロジェクトは1987年に鉱物探査プログラムを終了しました。

綱渡りの資金源を支える

ダメット氏は、探査の取り組みを継続できるように、それまでスポンサーを引き受けてくれた企業に採掘データをフィプケ氏に引き渡すように説得しまします。これによってフィプケ氏はダイヤモンド調査を継続できるように有ります。フィプケ氏は兼ねてより調査していた北米カナダでダイヤモンドのキンバーライトパイプの調査を継続します。
フィプケ氏は資金確保のために自分でカナダの証券取引所に上場した自分の会社を売り込み、安価で株式を販売して資金を確保します。その後さまざまな難局を切り抜けフィプケ氏はスチュアート・ブラッソン氏と共に1991年にカナダ北部で世界最大級のダイヤモンド鉱山”エカティ”を発見します。この報を受けてダメット氏は地下資源王手のBHPミネラルズにダイヤモンド採掘のスポンサーを引き受けさせることに成功します。

2001年、ダメット氏はそれ迄の功績を認められて副社長として地下資源採掘企業に迎えられます。さらにモンゴルでの地下資源プロジェクトを開始、ダメット氏の名を冠した大規模な斑岩銅金鉱床を発見するなど活躍をつづけました。しかし2002年8月に南アフリカで発生した不慮の自動車事故で62年の人生を閉じました。

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