ダイヤモンドカットの魔術師”キャプラン”
ラザール キャプラン(Lazare Kaplan)ダイヤモンドクリーバー・マスターカッター・ポリシャー、
ラザール キャプラン氏はロシア・ザブルトバに生まれます。小さなダイヤモンドカットハウスの三代目として生まれた彼は13歳の時にベルギー・アントワープのユダヤ人居住区へ移住し叔父の工場で見習いになります。すると才能を表しはじめます、当時高等技術だったダイヤモンドを切削することで名声を得ると20歳には自分の会社を立ち上げて本格的にダイヤモンドビジネスを開始しダイヤモンド産業界にデビューします。
キャプラン氏は不規則なグレイン(成長線)を持つダイヤモンド原石から美しい形のダイヤモンドを研磨する技術を習得していきます。本来クリービングの難しい原石は研磨後も良いダイヤモンドにならない筈ですが、キャプラン氏は天才的な技術でダイヤモンドをクリービングして粗悪な原石から美しいダイヤモンドを次々切り出していきます。そうしているうちに彼の元には良い原石が多数持ち込まれることに成ります。この才能は後にヨンカーダイヤモンドを切削する際の大きなヒントとなります。
世界が引き裂かれる戦争の悲劇
1914年にニューヨーク旅行中に第一次世界大戦が勃発しました。 8月4日、ベルギーが中立を宣言し、ドイツ軍のフランスへの通過を拒否した為ドイツは強硬的にベルギーへ侵攻しました。フランスを目指していたドイツ軍にとってベルギーを征服することは主要な目標ではありませんでしたが、アントワープに撤退した残りのベルギー軍が反抗したことで計画が変更され、ドイツ軍はアントワープを包囲します。戦力に勝るドイツ軍の攻撃でアントワープで抗戦したベルギー軍は壊滅アントワープは廃墟と化しました。旅行中だったキャプランは会社と工夫を両方失います。
ドイツの占領でダイヤモンド等の資産をベルギーから回収できないと悟ったキャプラン氏はニューヨーク・マンハッタンの南部に小さなダイヤモンドカット工場を開きます。運よく多くのベルギー人技術者も戦火を逃れてアメリカへ亡命していたのです。上位技術者ではないものの比較的簡単にメンバーを集める事に成功し、ダイヤモンドカット工場をスタートしますが、戦争と世界的な不況が重なり思うように収益が上げれませんでした。そこでキャプラン氏はカリブ海の島国であるプエルトリコがアメリカニューヨークに比べて賃金が安く勤勉で先住民の手先が器用である事を知り、工賃の安いプエルトリコへ行きそこでダイヤモンドの研磨工場とダイヤモンド加工の見習いプログラムを設立することを決めます。研修プログラムを彼自身の経験に基づいて組み上た専門学校の様なものを作ったのです。見習いは最初にカッターとポリッシャーになるように訓練され、技術を習得するとラザールキャプランの研磨工場で雇用しました。当時のプエルトリコは西米戦争でスペインからアメリカへ割譲された植民地だった為、多くのアメリカ企業が安い労働力を求めて進出しました。
※現在でもアメリカニューヨークのダイヤモンド取引所でアメリカ研磨として販売されるダイヤモンドの研磨地がプエルトリコなのは有名です。(プエルトリコの人々はアメリカ合衆国への編入を希望していますが、現在まで大統領の直轄地と言う位置づけのまま放置されています)ラザール・キャプランはプエルトリコに新しい産業を作り出したのです。10年ほどをプエルトリコのカット工場立ち上げに費やして軌道に乗せるとラザール・キャプラン氏はプエルトリコの職人たちが高いスキルを習得して職人として向いていると判断して、ニューヨークに事務所を構えて研磨とカットはプエルトリコにすべて集約してサプライチェーンを完成させます。
従兄弟で数学者のトルコフスキー理論を取り入れる
1919年に彼の従兄弟で数学者のマルセル・トルコフスキー氏が提唱したダイヤモンドの研磨理論をいち早く導入したラザール・キャプランの事業は軌道に乗り始めていました、しかし1929年10月29日は、米国史上最悪の株式市場の暴落が始まります。世界経済が崩壊に向かって行き、その結果は壊滅的でした。経済危機は米国で始まり、やがて世界中に広がりました。ダイヤモンド業界にとって経済が大打撃を受けることはダイヤモンドの需要がほぼゼロに落ちたことを意味します。需要の落ちたダイヤモンドは供給過多を引き起こし、最終的に価格の崩壊に繋がっていったのです。この影響で世界中の多くのダイヤモンド企業が倒産や閉鎖を余儀なくされます。実際にそのあおりは厳しくラザール・キャプラン氏も事実上の倒産に追い込まれてしてしまいます。
しかし自分で積み上げた職能を活かすべく、僅かに残った資金を元手にキャプラン氏は事業を再建します。その事業資金は彼の息子が貯金していた300ドルをもつぎ込む程だったと言われています。その結果、細々でしたが事業は10年にわたる不況を生き延びました。すると第二次世界大戦の初期にナチスドイツがオランダ・アムステルダムとベルギー・アントワープに侵攻した為に、そこかた逃げ出した多くのユダヤ人ダイヤモンド労働者が次第に会社に加わりはじめます。彼らはもともとアントワープやアムステルダムで活躍していた現役名売ての作業者達でした。こうして腕利きの工夫を得たラザールキャプランは再びビジネスを大きく発展させていくのです。
ヨンカーダイヤモンド(Jonker diamond)
1934年1月17日にヨハネス・ヤコブ・ジョンカー(ヨンカー)によって南アフリカのイーランドソファンティン鉱山(Elandsfontein)で発見されました。この原石はもともと世界最大のダイヤモンド原石として発見されたカリナンの5キロ先で見つかっておりその一部ではないかと言われているものです。実際に原石の天然の切断面がカリナンと一致する場所があった為です。ジョンカーダイヤモンドの原石は726カラットで、当時世界で4番目に大きな原石でした。
原石を買い付けたニューヨークのジュエラー”ハリー・ウインストン”は原石のカット・研磨をラザール・キャプラン氏に託したのです。
1979年のインタビューで、キャプラン氏は、宝石のビジネスにおいて競争相手であるハリー・ウィンストンの仕事を受け入れることに同意した主な理由はお金ではなく、彼の長男レオがキャプラン氏と共に巨大なダイヤモンドのグリーピングを経験できることだったと説明しました。 「私は当初ウィンストン氏のダイヤモンドをクリーピングする仕事はそんなに難しい事だとは思いませんでした」と彼は言っています。事実ダイヤモンドのクリービングこそ彼の天性の才能が発輝される領域だからです。またレーザー技術の開発が目前に迫っておりダイヤモンドを叩き割る”グリーピング”という技術を駆使して巨大ダイヤモンドを仕上げる時代の終焉をキャプラン氏自身が感じ取っていたのかもしれません。
ヨンカーダイヤモンドの原石がアメリカに来た時、ウィンストン氏の為に世界中のダイヤモンド原石の専門家によって最適なクリービング方法が研究されていたのですが。キャプラン氏がヨンカーダイヤモンド原石を調査確認すると、多くの専門家が間違っていることを発見します。天性のダイヤモンドを見る目が重大なグレインラインを発見させたのです。
キャプラン氏は専門家の提案に従って石を割ろうとすると、ヨンカーは思わぬ方向へ砕けてしまい、この原石から最適な研磨済みダイヤモンドを取り出すことは出来ないとウィンストン氏に伝えたのです。そしてキャプラン流ダイヤモンドのクリービング方法を提案しました。その結果ハリー・ウィンストン氏はキャプラン氏を信頼しヨンカーダイヤモンドのクリービングを任せることに成ったのです。
当時ヨンカーダイヤモンドの原石には100万ドルの保険がかけられていましたが、世界中の多くの専門家が反対するキャプラン氏の切断方法では危険であると専門家たちが反対した為にダイヤモンド切断保険が適応外となるほどでした。レーザースキャニングの無い時代でしたのでこの大きなダイヤモンドをいくつかのサイズに裁断する作業は当然ですが後戻りはできないギャンブル要素が多い作業だったのです。ラザール・キャプラン氏は息子のレオ氏と共に約1年をかけてカットプランを練り上げて、それを見事に成功させます。ヨンカーダイヤモンドは13個に分割されてそれぞれ研磨されます。これにより”ラザールキャプラン”の名声は最高潮に高まり「カットの魔術師」と呼ばれるようになったのです。
特別な美しさを誇ったオーバルブリリアント
従兄弟だったマルセル・トルコフスキー氏の数学理論をいち早く導入した上で、石との対話によって導き出される究極的な美しいカットラインは世界的にも認められていきます。キャプラン氏の研磨したダイヤモンドの中でも特に評価の高かったのが小判型”オーバル”シェイプに研磨されたダイヤモンドでした、これは1957年にキャプラン氏によってデザインされたダイヤモンドで”オーバルエレガンス(Oval Elegance)”と呼ばれ特別に人気を集めます。
その後も1964にGIA名誉副会長、1972年にははLazare Kaplan Internationalに社名を変更、株式公開して上場、1977年にはプエルトリコでダイヤモンド研磨産業を設立の功績で表彰され、1979年にはアメリカ小売商で殿堂入りを果たすなど第一線で活躍し続けます。
ラザール・キャプランは90歳になっても現役を続けていましたが、1986年2月12日に102歳で亡くなります。史上最高のダイヤモンド切断職人(クリーバー)の一人として彼の活躍は現在のダイヤモンド業界に刻まれています。