皆さんこんにちは!ブリッジ銀座アントワープブリリアントギャラリーです。
今日は”神聖ローマ帝国”についてです。神聖ローマ帝国と言えはブリッジ銀座アントワープブリリアントギャラリーでもお馴染みオーストリアハプスブルグ家の”マクシミリアン大公”が神聖ローマ帝国の皇帝を名乗り、その孫にあたるカール5世の時に繁栄を極め日の沈まぬ帝国と呼ばれるまでに成長した巨大な帝国なのですが、それにしてはあんまり歴史の授業でも触れられないと思いませんか?
(歴史の話なのであんまり関係ないですが、ベルギー・アントワープの写真のっけときます。)
簡単に言うと神聖ローマ帝国は800~1806年に西ヨーロッパに存在したドイツを中心にした連邦国家であるといえます。初めから、神聖ローマ帝国と名乗ったわけではなく、11世紀にはローマ帝国、12世紀には神聖帝国、13世紀になってから神聖ローマ帝国、15世紀後半からはドイツ人の神聖ローマ帝国とよばれるようになります。ここで言う15世紀以降の部分でマクシミリアンとマリー、またカール5世が係わることに成るのです。11世紀初代のローマ帝国は当時の東フランク王国のオットー1世がローマ教皇から「ローマ皇帝」の冠をもらった事にあります。さらっとローマ皇帝に任命されてますがこれはすごい事ですよね?
そもそも5世紀ころはイタリア、ドイツ、フランスはフランク王国と呼ばれており、ローマ帝国の支配下の国でした、そのため歴代の王様はローマ帝国の中心でもあるローマ・カトリック教会と密接な関係を持っていたようです。ヨーロッパ歴史で外せないのがローマ・カトリック教会、今のバチカンですね。此処には教皇がいます。教皇は日本で言うところの天皇のような存在。しかもヨーロッパ全土に対して大きな覇権を持っていましたので、ヨーロッパ全ての天皇のような状況だと考えてください。
そもそも日本は基本的に神道も仏教も受け入れてしまうような国民性ですが、しかし政治家が自分の宗教を告白する事は稀です。ですがヨーロッパは告白するも何も基本的にキリスト教でしかもカトリックが基本なんですね。王様もカトリックの信者である事が普通です。プロテスタントも有るのですが、ここで触れると複雑になるので後で書く事にします。その為に王様も上にローマ・カトリック教会の教皇(法王)が君臨しているのです。(※プロテスタントは正にカール5世の時に新興宗派として確立されます。)
ヨーロッパはローマ教皇(法王)がいて、そしてその下に大名の様に領地を支配する王様が点在しているというのが特徴です。古代ローマ帝国の威光が強いんですね、2020年現在もローマ・カトリック教会の教皇は日本で言うところの天皇位の地位が有りますもんね!?古代ローマ帝国はヨーロッパのほぼ全域と地中海を挟んだアフリカの対岸地域の殆どすべてを支配した帝国です。西ローマ帝国や東ローマ帝国など様々な変遷を経て1453年に滅亡するまで繁栄を極めます。その間ローマ・カトリック教会はその中心で権力を発揮し続けその後も世界的な影響力を維持しているのです。
さて、話は神聖ローマ帝国に戻って、この帝国の面白いところは、数多くの諸公国(バイエルン、ザクセンなど)、地方伯領、辺境伯領(ブランデンブルク、オーストリアなど)、さらにはボヘミア王国、イタリア王国などの大小様々な国家から成立していることで、全然中央集権体制ではなく、さらに皇帝の地位は世襲制でもありませんでした。大名と天皇で考えると織田信長が領地を拡大していっても天皇はその地位を失っていないし信長は天皇の家臣と言う位置づけですので、それに近い解釈だと判り易いかもしれないです。しかもそこに国家的な役割を持たせたり、貴族文化なので家柄が国柄とは別に存在する所が面白いですね。いうなれば神聖ローマ帝国の皇帝と言う地位は上杉謙信が戴冠した”関東管領職”の様な感じかもしれません。
そんなこんなでマリー姫の父、3代目ブルゴーニュ公”シャルル”が何故、神聖ローマ帝国の皇帝を狙っていたのか?が見えてきます。当時オーストリアハプスブルグ家よりもブルゴーニュの方が経済的に成功しており大きな力を持っていたのです。シャルルは経済力にモノを言わせてローマ教皇に取り入ろうとします。そうして空位となっていたローマ皇帝を狙っていたのです。不思議なくらい権力の欲求に何時の時代も人は囚われますね、そしてその権力争いは婚姻と戦争の両輪で進んでいきます。親兄弟同士の争いも多く、しかもカトリック系の人たちなので、とにかく名前が似てる。皆キリスト教の聖人の名前を名乗っていますので、発音で分けるのも限界有るくらいの重複度合いです。マリーとマクシミリアンもそうし目論見の中でシャルルが神聖ローマ帝国の継承権を持つオーストリアハプスブルグ家に取入ろうとしたことがきっかけだったと考えられています。
一人娘のマリーは当時の宗主国だったフランスとの盟約を破り女性のまま君主となり、夫であるマクシミリアンは当時としては珍しいいわゆる”マスオ”さん状態だったのです。その為、マリーはブルゴーニュ公、マクシミリアンは神聖ローマ帝国の皇帝を名乗った物凄い夫婦が誕生したのです。そして此処から始まるハプルブルグ家の歴史が中世ヨーロッパの貴族文化の中心となっていきます。
神聖ローマ帝国が大きな力を持った理由がこの二人の結婚だったのです。