アーネスト・オッペンハイマー (Ernest Oppenheimer)

アーネスト・オッペンハイマー (Ernest Oppenheimer 1880年~1957年) 

ドイツ・フライブルグ出身の鉱山事業家。ダイヤモンドや金の採掘で富を築いた、通称”ダイヤモンド・キング” アーネスト・オッペンハイマーは8番目の子供(5男)として1888年に生まれた。16歳で兄弟の勤めるダイヤモンド会社に入社するためにロンドンへ渡りダイヤモンドの仕分けアソート作業を身に着けると頭角を現し社内随一の技術者に上り詰める。ロンドンで作り上げた人脈には後のアメリカ大統領ハーバート・フーバーが居た。彼の活躍を助ける重要人物がこの頃からの長利と言うのも興味深い。

1902年会社は彼を南アフリカへ派遣する事を決める。オッペンハイマーは南アフリカのキンバリーで15年間ダイヤモンドの仕分け作業に従事する。その傍らキンバリー市の市長を務めるなど政治的な手腕も徐々に発揮し始める。1917年にはアメリカの企業と金鉱脈の開発にも参画している。ダイヤモンドキングと呼ばれるオッペンハイマーだが鉱山事業全体に精通していたことは有名。

1919年第一次世界大戦終戦時に東西アフリカの探鉱権が破棄されると、それ迄の所有者から権利を巧みに地下資源採掘企業のアングロ・アメリカンに移行し独占的な採掘に成功した。彼は南アフリカのダイヤモンド供給機構を構築しロンドンのダイヤモンドシンジケート経由でダイヤモンドを市場へ販売する仕組みを構築していきます。

しかし1920年以降相次いで良質のダイヤモンド鉱脈が発見され(オレンジ川河口のアレクサンダー湾での沖積鉱床やベルギー領のコンゴやアンゴラの一時鉱床等)ダイヤモンドラッシュが起こります。宝飾市場では空前のダイヤモンドブームが起こったのですが、突然の大量生産は市場の崩壊に繋がる事をオッペンハイマーは知っていました。

需要と供給のバランスを整えなければダイヤモンド資産を持つ業界の破綻に繋がるためにシンジケートではダイヤモンド在庫を買い支える必要があったのですがロンドンのダイヤモンドシンジケートは完全に破綻状態でした。買い付けには莫大な金額が掛ったのが原因なのですが、過剰供給にすれば値崩れしてさらに大きな損害に繋がる事からシンジケートは事実上閉鎖に追い込まれるのです。そこでオッペンハイマーは南アフリカの主要生産者に共同出資を呼びかけダイヤモンド・コーポレーションを設立します。

さらにオッペンハイマーは南アフリカの大手生産者と政府の合弁でダイヤモンド・プロデュース・アソシエイション(DPA)を設立、オッペンハイマーダイヤモンド・コーポレーションはDPAの中では1つの生産者と言う立場を取らせました。DPAには2つの役割を持たせました。1つはロンドンのダイヤモンドシンジケートの役割を代行して他の生産者が生産したダイヤモンドを全量買い上げる。もう1つは次年度に立ち上げるダイヤモンド・トレーディング・カンパニーを作り、DPAが買い上げたダイヤモンド全量を仕分けして出荷セントラル・オーガナイゼーションを通じて販売すると言うものでした。

このセントラル・オーガナイゼーションこそ、現在の”サイト制”の事なのです。2020年現在はデビアスグループのダイヤモンド供給を受ける為には厳格な審査基準をクリアしたグローバルなダイヤモンド開発企業である事が義務付けられていて、サイトホルダーの称号はダイヤモンド業界のステータスに成っています。

この仕組みを作る事でダイヤモンドの販売体制を事実上統合しデビアスグループ1社で完結させると言うものでした。この仕組みにより世界的な経済恐慌や価格の暴落もコントロールして現在までダイヤモンドの市場価値を担保してきた仕組みを作っていたのです。オッペンハイマーはダイヤモンドが底値で売られることなく市場が活況のタイミングでは徐々に放出されることで利潤を確保し将来の緊急事態に備えるような仕組みを作り出したのです。こうしてアーネスト・オッペンハイマー卿は巨万の富を築きダイヤモンド・キングと呼ばれるまでになったのです。

2000年デビアスグループは株式の全量を親会社のアングロアメリカに統合しデビアスグループ・ダイヤモンド・トレーディング・カンパニーと社名変更して現在に至っています。

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