アメリカ近代ダイヤモンド研磨界の父と呼ばれた男
チャールズ・M・フィールド(Charles M Field)はヘンリー・D・モースと共に活躍したダイヤモンドカッター・ポリシャー・クリーバー。現代式のダイヤモンド切断機の開発者でもある。
まず最初にヘンリー・D・モースの事業に参加して彼の会社のマスターカッターとなったチャールズ・フィールドは手始めにブルーティングマシーンの開発に着手します。そしてによって1874年と1876年に蒸気駆動のブルーティングマシンの英国特許と米国特許を取得します。ブルーティング(ガードリング)技術が未熟だったためそれまではダイヤモンドに曲線の輪郭を持たせる事が出来ませんでしたが、チャールズの発明でダイヤモンドを丸く研磨する事が出来るようになったのです。これによって先ずはマーキース、オーバル、ラウンドの順に新しいカットが開発されて普及していきます。
チャールズとモースの活躍によりラウンドブリリアントカット(アメリカンカットやヨーロピアンカット)が開発されます。チャールズはブルーティングという全く新しい技術を駆使して当時のダイヤモンド事情を大きく塗り替えて行くのです。
1900年代になるとチャールズとモースの開発したブルーティングマシーンの動力は電気となり、より安定した出力で稼働できるようになります。これによって対称性を重視したダイヤモンドのカットが可能になり、アッシャーカットなど変形カットの特許申請など多くの変形カットがデビューすることに成ります。「歩留りよりも輝き」を追い求めたチャールズとモースが1916年に発表したラウンドブリリアントカットダイヤモンドは現在GIAが考案した最高グレード「トリプルエクセレント」のダイヤモンドとさほど変わらない形状をしている事は驚きです。
ベルギー・オランダとアメリカの覇権争いに大きな影響を与える
ダイヤモンド切断業はモースやフィールドらが活躍していたアメリカを除くと1900年代初頭までユダヤ人によって運営されるアントワープとアムステルダムが大きなマーケットでした、しかし第二次世界大戦中のドイツ占領地でのヒトラーのユダヤ人集団の訴追により事実上一掃されてしまいます。
ダイヤモンド切断業においてアントワープとアムステルダムの2つ産業都市は立ち直る事の出来ない大きな打撃を受け、そこから復権する事は大戦終結まで成しえませんでした。
ダイヤモンド加工の多くはナチスに没収され、ユダヤ人作業者は投獄されるなどしてヨーロッパのダイヤモンド加工はこの時代完全に一度消滅してしまいます。戦火を逃れた技術者や識者の多くはイギリスやアメリカ・イスラエルなど戦火の及ばない安全な地へ亡命したのです。
こうしてダイヤモンド切断やブルーティングの多くはイスラエルやアメリカ、そしてインドなど他の場所に建設されました。
その間もダイヤモンドビジネスを得意とするユダヤ人たちの手でダイヤモンド原石からより効率よく研磨済みダイヤモンドを取り出す研究は進められており、1990年には原石からの最高の歩留まりを導き出す高精度のレーザーの仮想3Dモデリングなどの新しい手法が適用・運用され始めます。これによりアントワープ等では重要な原石のカット(切断)ブルーティングなどが行われるようにもなっています。