トーマス・カリナン(Thomas Cullinan)

世界最大のダイヤモンドを採掘した男

トーマスカリナン卿(Sir Thomas Cullinan)(1862年2月12日-1936年8月23日)世界最大のダイヤモンドカリナンの所有者でダイヤモンドの名前にもなっている有名な人物。南アフリカではダイヤモンド大王と呼ばれています。カリナンの所有していたプレミア鉱山は良質のダイヤモンドを多く産出した伝説の鉱山なのです。
トーマスカリナンは、1862年2月12日イギリス統治下のケープコロニーのセイモア近くのエランズポストでオランダ系移民の子供として生まれたボーア人です。当時のケープタウンはアフリカ以東エリアへの海上戦力の補給地として重要であり、この地を抑える事はアフリカのみならずアジア圏への強い影響力も手に入れる事だったことから列強にとって南アフリカ支配の支配は極めて重要でした。

1884年にバーバートンに移り、2年後に結婚します。 1887年、カリナンは金鉱脈の発見にで多くの移民が押し寄せていたヨハネスブルグに移り住みます。そこで彼は最初は煉瓦工として働きます。しかし程なくして次々見つかる地下資源のの探査に目を向けるようになります。 そうして1897年にはランドロードの近郊のパークタウンに家を建て地下資源の発見に専念するようになります。1898年さっそくダイヤモンドの鉱脈を発見します。
後にプレミア鉱山と名付けられ世界最大のダイヤモンドカリナンを産出するこの鉱山を発見した時、この場所は既存のダイヤモンド鉱脈からはかなり離れたな所でした。結晶系の形がそのままのダイヤモンドを見つけた彼はこのダイヤモンドが一時鉱床のダイヤモンドであると推測しました。カリナンには確信が有りました。当時最新の地層学で一次鉱床で産出したダイヤモンドと二次鉱床で採掘されたダイヤモンドには外観に大きな違いが有る事を勉強していたカリナンは最初にプレミア鉱山の場所で発見したダイヤモンドが結晶系そのままに産出した原石、すなわち一次鉱床のモノであると確信していたのです。

しかもその場所はダイヤモンドを含むキンバーライトパイプ”ブルーグラウンド”で有る事を突き止めます。ダイヤモンドはキンバーライトと一緒に産出しますが同時にガーネットやオリビン、スピネルと言ったダイヤモンドの内包物に成り易い宝石も同時に産出するのです。現在の地層学ではこうしたダイヤモンドと同時に生成して産出する鉱物を指標鉱物と呼びますが、この頃それを知る者はいませんでした。

カリナンはこの土地の所有者であったジョアヒン・プリンスルー(Joachim Prinsloo)に交渉してこの土地を何とか買い上げるように交渉を開始します。しかし、ジョアヒンは以前にも自分の売却した土地から金とダイヤモンドが産出したことが有ったために安易に土地の売買に応じてはくれませんでした。粘り強く交渉を進めているとジョアヒンが急死します。カリナンは、父の死後に農場を受け継いだジョアヒンの娘から52,000ポンドで土地を購入することに成功します。

カリナン鉱山の操業

カリナン鉱山はこうして創業し、毎年300万カラット程度の産出を続ける大きな鉱山へと成長していくのです。もともとオランダ系移民の子でボーア人あったカリナンはトランスバール工業会議所を他の事業者らと共同で創設します。そしてトランズバール工業会議所の会長に就任します。さらにトランズバール立法議会のメンバーとなり政治の世界にも進出していくことに成ります。すると操業して(鉱山企業としての操業は1902)8年後の1905年に大きさ3106カラット(621.2g)。長さ101mm、高さ63.5mm、幅50.8mmという当時世界最大(原石のサイズとしては未だに最大)のダイヤモンド原石が採掘されるのです。
この時、南アフリカのダイヤモンドの取引は基本的にセシルローズ率いるデビアスグループの統治下にあり、販売管理がなされていましたが、トランスバール共和国でオランダ系ボーア人が発掘したカリナンはこの販売体制には組みしておらずカリナンは独自の販売ルートを取ることに成ります。
また事業で成功していたカリナンですがトランスバール共和国は南アフリカを実効支配するイギリスとのバール戦争に1899年から巻き込まれており1902年にトーマス・カリナンのトランスバールは敗戦します。バール戦争ではゴールドラッシュに沸いていたトランスバール共和国は金鉱脈の資金を狙ったイギリスの標的となった物でした。ダイヤモンドは直接的に狙われたわけでは無いようですが、同じ地下資源として見逃せなかったのでしょう、こうしてトランスバール共和国はバール戦争で大きな代償を払うことに成るのです。敗戦によってカリナンたちのトランスバール共和国もイギリス統治下におかれてしまいます。

世界最大3106カラットのダイヤモンド

そん中(1905年)発見された3106カラットのカリナンはトランスバール共和国の自治権を認める賠償金と共にイギリスのエドワード7世に献上されることに成ります。これによってイギリスはボーア人との関係改善を図り、1905年にはボーア人農民を勢力基盤とする人民党の成立を認めます。トランスバールは1906年に自治政府が樹立され、1910年に成立した南アフリカ連邦を構成する州の一つ「トランスヴァール州」となります。短期間で経済復興も進められ、鉄道網もさらに整備されるのです。カリナンは1910年に行われた最初の南アフリカ連邦議会ではプレトリア西部地区の代表として参集されています。

献上されたカリナンは政治的な理由でデビアス系の加工業者には渡らず、同じオランダ系のダイヤモンド加工業”アッシャー社”で1063カラットの9個の大きな石と、96個の小さな石に切り出された逸話は有名です。完成したダイヤモンドはトランスバールの自治権復帰の為に尽力したカリナンの名前を付けて”カリナン”と名付けられたのです。

地下資源採掘で成功したカリナンはこの後トランスバールの発展に大きく貢献します。これは伴って南アフリカの産業発展への貢献する事であり、これをジョージ5世を代表するコンノート公爵によって認められ、南アフリカ連合の就任式で1910年に騎士に叙任されるのです。カリナン達土着の白人層は現在の南アフリカの白人層の始祖でもあります。
その後トーマスカリナン卿は1936年に74歳で亡くなりました。

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