皆さんこんにちは!ブリッジ銀座アントワープブリリアントギャラリーです。
今日は1866年に最初のダイヤモンドがアフリカで見つかるまでのダイヤモンドについて書いています。その中でも特に疑問なのが、ブルーティングマシーンやソーイングマシーンの動力が弱く若しくはそれらの機械が開発される前の時代であってもラウンドカットのような丸の研磨フォルムのダイヤモンドが有るのはなぜなのか?という事です。どうしてそれらの丸い形状のダイヤモンドが出来たのか?少し書いてみます。
ダイヤモンドは1866年までインドとブラジルがその産地でした。ブラジルもインドもいわゆる二次鉱床でした。しかし、簡単に川底の堆積物や海の堆積物を探せばよいと言うものではなく2~5億年かけて運ばれてきたダイヤモンドは有るときは土地の地盤沈下と共に地底へ潜り、ある時は土地の隆起と共に地表へと出現すると言った具合でしたので、インドもブラジルも一か所でまとまってダイヤモンドが産出していたわけではなさそうです。一部ゴルゴンダ等の有名なダイヤモンドの谷は存在しますが、実際そこで産出していたのかは?判っていません。
1866年までに人類がインドとブラジルで発見したダイヤモンドの総数は10万カラットだったと言われています。これは有史以前紀元前5世紀頃からインドでダイヤモンドがカーストの証として用いられていた事を考えるとトンデモナイ出現確率と成る事は容易に想像できると思います。2300年の間に10万カラットですので平均すると1年間に世界で僅かに43カラットしか産出していなかったのです。宝石品質の割合は20%と仮定しても年間8カラット程度なのでダイヤモンドは宝石として流通する事は不可能だったと考えられます。ダイヤモンドはその鉱物的特性から珍重されたのです。
そしてそれは圧倒的な希少性と共に様々な神話や逸話を伴い人々の間に広まっていったと考えられます。かの大プリニウス(古代ローマの科学者)も自身の著書”博物誌”の中で「ダイヤモンドはこの世の全てで最も価値のあるものだ」と記しています。プリニウスが博物誌を書いたのは紀元50年頃の話なので、当然当時ダイヤモンドを加工することは出来ませんでした、ダイヤモンドはもっぱらその硬さ故に貴重とされてきたのです。事実プリニウスの考察で”プリニウスはキュウリの種ほどのダイヤモンドも貴重視していたが、それらは工具としての実用性が評価されたもので、「宝石」としての評価ではなかった。”と表されています。
聖書の「エレミア書」には(第17章1)「ユダの罪は、アダマントのとがりをもってしるされ、彼らの心の碑と、祭壇の角に彫りつけられている。」と書かれています。がここで使われているアダマントはプリニウスの博物誌の中で使われた”鉄鋼を含めて硬いもの全体を表現した「アダマス」( Adamas )という物質の一種として取り上げた”から取られたと考えられています。インドでカーストの証として使われたのもこの比類なき硬さ故、レプリカの複製や模造品の作成が出来なかったことに由来していると思われます。
この当時からダイヤモンドは加工し難い物であることは知られていました。原石の結晶方向に平行に割れる性質”劈開(へきかい)”も解明されていませんでしたので、ダイヤモンドは超硬素材でありながら、時に脆く割れたりするという何とも所有者泣かせな品物だったのです。しかもプリニウスの記述に出て来るキュウリの種ほどのサイズ、、、これでは結晶の方向や加工しやすさとかそういう話に成りませんね。この頃古代インドではダイヤモンドを砕いた粉末をオリーブオイルに溶いてペースト状にしてそれを木の皮や動物の皮に塗布して研磨材にしていました。当時この方法は唯一ダイヤモンドを加工する方法だったのです。古代インドのダイヤモンドは少なからずこの方法で仕上げらられ、こうして僅かに表面を磨いて大まかに研磨面を付けた加工のダイヤモンドをムガールカットと呼びます。比類なき硬さから発揮される表面研磨は不完全でしたがそれでも当時の人々を魅了したのです。
ここで注目したいのはこの時発見されているダイヤモンドは全て漂砂鉱床(二次鉱床)のダイヤモンドであるという事です。一次鉱床でダイヤモンドは発見されるのは1866年に最初のダイヤモンドが発見されてから約20年後ですので、1886年頃と言うことに成ります。それまでに発見されたすべてのダイヤモンドは少なくとも二次鉱床のダイヤモンドなのです。一次鉱床のダイヤモンドと二次鉱床のダイヤモンドには決定的な違いが有ります。それは結晶の先端が粗く削れて丸くなり、全体的に丸みを帯びた二次鉱床のダイヤモンドに対して、一時鉱床のダイヤモンドは結晶形が完全に残ったまま(過度の尖った結晶の形をしたまま)産出してくるという事です。ランオブマインの回で書いたような原石の集合体を見ると産地のおおよそを言い当てる事が出来るのは、原石の受けている外的要因が産地によって特性が有り一定の確率で外観が似ている事が要因です。
ランオブマインの様に結晶形が残ったまま産出していたならば、古代の学者たちにもダイヤモンドの特性や劈開を容易に見抜く事が出来たかもしれません、しかし、長い間自然に磨かれて角の取れて丸くなったダイヤモンドではもともともの結晶の形が6面なのか?8面なのか?12面なのか?それともマクルや複合した形なのか?は外観から判断するのはとても困難だったのです。その為、劈開を利用してグリーピングするのは不確実でギャンブル性が高くとても危険な事でした。思わぬ方向に砕けてしまっては折角のダイヤモンドが台無しだからです。しかも一時鉱床で産出するダイヤモンドにはグラッシーな結晶が有るのですが、二次鉱床のダイヤモンドは例外なく表面は無数の小傷に覆われていていわゆるフロステット若しくはそれに近いダメージの状況で産出してきます。
1850年に蒸気機関式のブルーティングマシーンやソーイングマシーンをヘンリーDモースが開発するまではダイヤモンドのガードリングは出来ませんでした、それなのにどうしてラウンドカットのダイヤモンドが有ったのか?という疑問が有ると思います。これは自然の力で輪郭がほぼ丸に研磨されてさ出してくる二次鉱床のダイヤモンドだからこそ可能だったというのが答えなのです。