カンピーヌ(デ・ケンペン)
ダイヤモンド研磨の聖地アントワープ
カンピーヌ(Campine or De Kempen )にはフィリッペンス・ベルト氏のアトリエが有る。ベルギーアントワープのダイヤモンド業界は1870年代の「アントワープの月曜日」を経て1880年頃からのダイヤモンド価格の暴落を経験し、業界を挙げてダイヤモンドの価値保全と業界の安定に取り組んでいました。しかし1902年に南アフリカ(旧トランスバール)のプレミア鉱山、1908年に南西アフリカ(現在のナミビア)で大規模なダイヤモンド鉱山が発見され、それらはイギリス権益を逃れデビアスのシンジケート外で販売されていました。
当時デビアスはダイヤモンドが一度に大量に市場に出回る事で価格の暴落が起こる事を懸念してダイヤモンドを中央販売体制で数量をコントロールして販売していました。しかし、プレミアや南西アフリカのダイヤモンドは自由市場と称してダイヤモンドを販売していました。その在庫は供給過多によって次第にさばききれなくなります。ダイヤモンド原石を取り扱う業者の中には破産を避けるために安価でダイヤモンドを処分する者も現れました。
しかもプレミアや南西アフリカからもたらされるダイヤモンドはそれ迄のサイズとは異なり、かなり小粒の物もが多く含まれていました。50%(0.02ct)や80%(0.012ct)の小粒な原石群でこれ等は研磨済みの状態で0.005ct~0.01ctとそれまで取り扱ったダイヤモンドよりも圧倒的に小粒で安価でした。都市部のダイヤモンド加工工場よりも工賃の安い郊外へ工場を移す必要が有ったのです。カンピーヌ(ケンペン)はアントワープから東へ向かった場所に有る平坦な砂地エリアでした。
此処ではアントワープほど加工工賃をかけずとも安価な労働力を確保する事が出来たのです。しかも家内工業の様な小規模のダイヤモンド加工工場が稼働可能な場所となったのです。アントワープのダイヤモンド加工地しての地位は最終的にこうした やや辺鄙な場所での安価な工賃に支えられた部分が大きかったと言います。
この後デビアスによってダイヤモンドの販売数量コントロールが働きダイヤモンドの価格は一度は暴落するものの何とか持ちこたえて現在に至ります。2020年現在では逆に稼働鉱山の寿命がそれぞれ迫ており世界のダイヤモンド需要に対して供給が追い付かない状況へのカウントダウンが始まっているのです。
最盛期には2000件もの小規模ダイヤモンド加工アトリエが軒を連ねたこのカンピーヌ(ケンペン)地域では100年以上たった現在僅かに5件の研磨工場が有るのみです。フィリッペンス・ベルト氏のアトリエが有るのもこのカンピーヌ(ケンペン)地方です。