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ケープ植民地(ケープコロニー Cape Colony)

東アジア海洋派遣の最重要値


1652年にオランダによってアフリカ上陸がなされ以降ケープ植民地はアフリカのホープ岬を軍事的な拠点とした欧米列強によって長きにわたって覇権を争った重要な地です。

当時のアフリカを取り巻く環境は複雑です。宗教的にヨーロッパで発達したキリスト教(カトリック)と新興のプロテスタント、それに対抗するイスラム教(アフリカ北部拠点)フランスとイギリスの覇権争いと、オランダなどのネーデルランド系の勢力(ポルトガルやスペイン含む)、それにイタリアとドイツを加えた列強等の僅かな国で広大なアフリカを分割統治していました。

1600年代や1700年代はアフリカ内陸部には魅力的な資源は無いと思われていたためにアフリカは海岸部の港覇権が主でした。その為列強は港を抑える事に力を使い内陸にはあまり興味を示していませんでした。先住民との取引も家畜や農産物が主で貨幣ではなく物々交換が主流でした。また先住していたコイコイ族は奴隷として制圧されていましたが、先住民との間に生まれた子供たちはボーア人と呼ばれ人種差別されることなく白人社会に組み込まれています。また第二世代以降の土着のオランダ人やイギリス人、ドイツ人もボーア人と呼ばれます。

1600年代からオランダによって統治されてきたケープですが1795年に上陸してきたイギリス軍によって占領されてしまいます。アメリカの独立戦争で当初中立を表明していたオランダですがアメリカへとの交易がイギリスに発見され多くを拿捕されるなど大きな打撃を受けます。程なくアメリカ独立側を支援する形で参戦表明しますが、当時海軍兵力が衰退し脆弱化していたオランダはイギリスに海上封鎖され、支配地域(植民地)の多くを遠隔攻撃され奪われてしまいます。
局地的な陸戦で勝利を挙げアメリカは独立を果たしますがイギリス海軍力は無傷で、その後世界の制海権はイギリス優位のまま続いて行くのです。
これによって沿岸部や港から土着のオランダ系ボーア人は内陸へ追いやられます。オランダ系ボーア人はこの地でオレンジ自由国とトランスバール共和国を建国し独立を宣言します。程なくこの地で大量のダイヤモンドと金鉱山が発見されると看過できないイギリス軍との戦争に巻き込まれていくことに成ります。そして1860年以降ダイヤモンドの鉱脈や金の鉱脈、そしてプラチナなどの豊富な地下資源が確認されると覇権争いはさらに激しい物に成っていきます。そしてこの流れは1910年に南アフリカ連邦発足まで続いていきます。

 

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