カール・フリードリヒ・ツァイス(Carl Friedrich Zeiss)
ダイヤモンドの輝きを計算した人物
カール・フリードリヒ・ツァイス(Carl Friedrich Zeiss 1816-1888)ツァイスはドイツの光学機器製造業者で、現代のレンズ作製技術に大きく貢献した人物
1870年、光学機器製造を生業としていたツァイスの光学理論を用いたヘンリーDモースはダイヤモンドの内部で入射した光がどのような反射をして動くのか?を研究し最適なダイヤモンドの形を導き出します。現在のエクセレントカットの元となる理想的な輝きを放つダイヤモンドの誕生した瞬間でした。ツアイスはガラスレンズだけでなくダイヤモンドの輝きにも影響を及ぼしていたのです。
1834から顕微鏡を生産していたツァイスですが1866年頃にはドイツの天文学者、数学者、物理学者、実業家でもあったエルンスト・カール・アッベの数学理論を用いて設計したガラスレンズを開発していました。ツァイスはこの後、複数の数学者や光学ガラスを主とする応用無機材料学者フリードリッヒ・オットー・ショット等と共同で様々なレンズの開発で成功していくことに成ります。そして1870年にツァイスの開発した光学理論”レッドリングルーペ”を用いてヘンリーDモースがダイヤモンドを研磨します。しかし、レッドリングルーペ理論でダイヤモンドを仕上げる事には問題点が有りました。それは原石をおおきく削り落としてしまってカラットが小さく成る事でした。
※現在GIAによって考案されたエクセレントカットも原石からの目減り率は55%で半分以上のカラットは失われてしまうのです。
それでもモースの仕上げたダイヤモンドの輝きは話題となり貴族の間で持て囃されていきます。さらにモースは世界初の”リカット業者”となりそれ迄に販売されたダイヤモンドの再研磨を始めます。ダイヤモンド加工で先行していたベルギーやオランダではカラットと輝きならカラットを優先する風潮が有りましたので、モースの輝き優先の考えは当時のダイヤモンド業界では受け入れられないモノでした。しかし、市場はモースの理論を称賛し受け入れていくことに成ります。ダイヤモンドの所有者は手持ちのダイヤモンドを少しカラットを失ってでも最大の輝きを得るために我先にとモースに再研磨を依頼したのです。
1860年頃までに人類史で地上で発見されたダイヤモンドの総量は10万カラットでした。これは一年平均で15カラット程度となるため、輝き優先にダイヤモンド割ったり削ったりして小さくカットする(カラットを失う)事はセオリーでは在りませんでした。しかし1860年以降アフリカでダイヤモンドが爆発的に産出すると(年間1000万カラット以上)それ迄の様にダイヤモンドのカラット優先ではなく輝き優先へと考え方が変化してきたタイミングでもあったのです。
こうしてレッドリングルーペ理論で仕上げられたモースのダイヤモンドは称賛を受け世界で受け入れられていきます。
1888年キャリアの絶頂期に合ったモースですが自宅の火事で不慮の死を遂げてしまいます。モースのダイヤモンドカットアトリエは1888年に解散してしまいます。ダイヤモンド業界は当時最高のカット・研磨技術をもった職人を失ってしまったのです。こうしてレッドリングルーペ理論は所在不明のまま理論だけがダイヤモンド業界内で生き続ける事となります。