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「ダイヤモンド」加工と技術発展の歴史

ダイヤモンドは切断(カット)して研磨(ポリッシュ)する事により多彩な表情を見せてくれます。
同じダイヤモンドの原石でも、切断(カット)研磨(ポリッシュ)次第で「輝き」や「価値」が大きく変わります。
ご覧のページでは、ダイヤモンドカット発展の歴史・技術をふまえ、当店BRIDGE銀座が指名する世界的ダイヤモンド研磨師「フィリッペンス・ベルト氏につきましてもすこし掲載いたしました。
より一層、ダイヤモンドに興味を持ってもらえれば幸いです。
ダイヤモンド加工の歴史は、超硬素材であり脆(もろ)い特異な性質のダイヤモンドの魅力を最大に引き出すため、ダイヤモンドカッターやポリシャー(研磨師)はじめ各作業分野で狭義の専門性を要求される技術を創意工夫の末に開発する中で問題に挑む歴史でもありました。

今、私たちが手にするダイヤモンドは、そのような長い歴史を経て少しずつ最高の輝きへと近づいてい行ったのです。
そしてダイヤモンドはいつの時代も最高の輝きで私たちを魅了してくれます。

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ダイヤモンドカットの予備知識

ダイヤモンドは地球上で実験で確かめられている中では天然で最も硬い物質です。
そんな硬いダイヤモンドでも、結合力の比較的弱い面があり、その性質を「劈開(へきかい)」と言います。
その「劈開(へきかい)」を使った切断・カット方法を「クリービング」と呼びます。
また、ダイヤモンドの切断や研磨において、結晶構造上無視する事が出来ない切断可能方向を「グレイン」と呼びます。

ダイヤモンドは原石の形に関わらず、石の内部で、最も柔らかい六面体面と、次に柔らかい十二体面とが有り、この面に沿ってダイヤモンドパウダーを使い鋸引き・切断する事ができ、これをソーイングと呼びます。逆にグレインを無視して加工する事は1ミリたりとも出来ません。
一般的にダイヤモンドの輝きはブリリアンスディスパージョンシンチレーションの3要素で構成されています。
簡単に言いますと、

この3要素のバランスがダイヤモンドの輝きを決めています。
この他にBRIDGE銀座では以上の3要素が揃ったダイヤモンドにみられる”存在美”や”ファイヤー”も特に注目しております。

”存在美”や”ファイヤー”と言った上記3要素は原石選定の段階で見定めておりますが、ここでは原石から引き継ぐ美しさよりも加工職人たちの手で作り上げられてきたブリリアンスディスパージョンシンチレーションの3要素について書いて行きます。ダイヤモンドはカット(Cut)して成形し、その後 研磨(Polish)して仕上げる 大きく分けて2工程で行われます。

現在はそれぞれの作業工程を別々の職人が担当しています。ダイヤモンドは原石の形を見極め最終仕上げのプランを立ててた後、おおざっぱにクリーピング技術を駆使してカットして形を整えます。よほど大粒のダイヤモンドを除けばCut(カット)工程は専用器械を使ってより正確に行われるようになってきました。

さらにブルーティングしてガードルを決め、仕上げ後のダイヤモンドの最大横幅をこの段階で決めます。そしてテーブルをソーイングして切り出すと、そこから個々の面を仕上げるファセッティングの作業に入っていきます。
粗くファセッティングした後は仕上げのポリッシュ研磨作業に入ります。
この段階で最後の角度調整や研磨面の調整などが細かにされてダイヤモンドは仕上がっていきます。

アントワープブリリアントの専属研磨師フィリッペンス・ベルト氏はこうしたカットの作業工程も経験していますが、ダイヤモンドの輝きを決める一番の要素はこのファセッティングからポリッシュ研磨の作業工程にこそある事からベルト氏はこの研磨作業を極める事に専念しているのです。

今でこそ宝石の王様と呼ばれるダイヤモンドですが、その昔はただの硬い石でした。そのため多くは宝石というよりも石板や石に文字を書く道具等に使われたりしており、宝石として魅力を発揮するのはルビーやサファイヤなどと比べるとずっと後の事となります。
それではダイヤモンドを仕上げる歴史がどのようにして紡がれてきたのか?時系列で紹介したいと思います。
ダイヤモンドは1867年頃アフリカで発見されるまでは主にインドと僅かにブラジルから産出する大変希少な鉱物であり宝石でした。しかも主要産地であるインドではカースト(身分)を現す物としてダイヤモンドが用いられており、元々美しい8面や6面、12面等の整った結晶系のダイヤモンドはインドから持ち出すことが大変困難でした。ヨーロッパに交易品として持ち込まれるダイヤモンドは結晶のゆがんだものや整わない成長線のダイヤモンド等、品質の低い物が大半だったと言われています。

インドでは超硬素材であるダイヤモンドの表面を磨いただけのムガール仕上を施すことが通常でした。整った結晶系のダイヤモンドはそれだけで美しかったのです。しかもその研磨方法は木の皮や動物の皮の表面に低品質のダイヤモンドを砕いた粉を敷き、そこにダイヤモンドを手で擦り付けて研磨するという原始的なものでした。

※19世紀、当時世界最大のダイヤモンドとして人々の注目の的だったダイヤモンド「コ・イ・ヌール」がインドから持ち出されパリ万博に出展された際、まばゆい輝きを想像して集まった多くの民衆はムガールカットの”コ・イ・ヌール”があまり輝いていない事にガッカリしたという逸話は有名です。インドからダイヤモンドを持ち出し新たな所有者となっていたヴィクトリア女王は民衆の落胆を見てコ・イ・ヌールを輝きを放つブリリアントカットへとクリーピングしてリカット、再研磨して186カラットから現在の105カラットと大幅にカラットを失うサイズになってしまった逸話は有名です。

ダイヤモンドカットの種類と歴史

14世紀頃迄は原産地であったインドでは加工する必要が無かった為ダイヤモンドの加工は主にヨーロッパの歴史で紹介していくことに成ります。ここで紹介するダイヤモンドカット・研磨の歴史はおもにヨーロッパでのダイヤモンド加工の歴史です。

マクル原石は双晶

14世紀までにインドからヨーロッパへ持ち帰ったダイヤモンドは8面や6面12面と言った等軸結晶の美しいダイヤモンドでは無くインドで使い物にならなかった低品質やマクルと呼ばれる双晶結晶のダイヤモンドだけでした。身分制度の証にダイヤモンドを使っていたインドでは冒険者に王と同じ位を表す等軸の美しいダイヤモンド結晶を手渡すことは無かったのです。
その為、インドからヨーロッパへもたらされたのは結晶の崩れたニアジェム品質以下のダイヤモンドとマクル結晶のダイヤモンドだけでした。そうした歴史の解説からダイヤモンドの加工の歴史を書いて行きます。

紀元前7世紀~14世紀 征服されざる者

人類史に最初にダイヤモンドが登場するのは紀元前7世紀ころです。当時唯一の産地であったインドではダイヤモンドをカースト(身分)制度の象徴として珍重していました。ダイヤモンドは衝撃に脆い反面、ひっかき傷には非常に硬い性質を持っていました。その性質を利用して身分の高い者(王や貴族)は結晶の整ったダイヤモンド原石をリングにそのままセッティングしてダイヤモンドを原石のまま身に着けたのです。

これはダイヤモンドは硬すぎて加工できない事が原因してました。それでも古代インドでは木の板や革を固定して、ダイヤモンドの粉末をオリーブ油に溶いてペースト状にして塗り込み、ダイヤモンドを手に持って擦っていくという研磨方法で僅かにダイヤモンドの研磨面を作っていたようです。
これはインドのダイヤモンドが二次鉱床からもたらされるもので、ダイヤモンドの原石表面は自然に磨かれ艶消し状態になっており、角は取れて丸くなっていたことが原因していたようです。この表面を少しだけ磨いた加工をムガールカットと呼びます。しかしそれも途方もない作業時間が必要だったために美しい原石にはあまり行わず、形の崩れた原石に対して表面を磨く簡単な加工として施していたようです。

古代ローマのプリニウスも博物誌の中で「“Diamond is the most valuable, not only of precious stones, but of all things in this world.”「ダイヤモンド は、貴重な石だけでなく、この世界のあらゆるものの中で最も価値があります。」と記載しています。プリニウスは紀元50年頃の人物ですので2000年前には既に貴重な宝石としての認識を世界中が共有していたことに成ります。

ダイヤモンドカットの歴史 ポイントカット グレイン

14世紀初めはダイヤモンドの特性がまだまだ謎に包まれていたので、「劈開(へきかい)」に対して、クリービングを使って原石をカットし形を整えた後に表面を仕上げたポイントカットが最新でした。しかし等軸状のダイヤモンドがヨーロッパへもたらされるのは非常に稀でなかなか等軸結晶のダイヤモンドを加工するチャンスは無かったと推測されます。

この時代でも地上で最も硬い鉱物であるダイヤモンドを磨く方法は長らく謎でした、そのためダイヤモンドは劈開を使って割ることはできても磨くことは事実上出来ませんでした。これは結晶の整っていないダイヤモンドはグレインが乱れておりダイヤモンドの粉を使っても磨くことが困難だったことが原因しています。

ダイヤモンドはその比類なき硬さから「征服されざる者」という意味を持つ「アダマス」を語源としています。宝石用に使えない低品質ダイヤモンドの使用用途としてはジュエリーではなく主に石板や硬い素材に文字を書く道具として利用されていたようです。
しかし遂にこの時代ダイヤモンドの結晶同士を擦り合わせると磨ける事がヨーロッパでも解明され、ダイヤモンドの表面を磨いて仕上げる事が出来る様になりました。エメリー鉱というルビーやサファイアの粉を用いて宝石を磨く方法は古来より使われていたもののダイヤモンドはエメリー鉱では硬さが足りないために磨くことは出来なかったのです。しかしダイヤモンドを砕いてエメリー鉱の様に用いたボートが発見されるとボートをエメリー鉱の要領で使ってダイヤモンドを加工出来るようになったのです。

しかしボートを用いたこの方法でダイヤモンドを磨くにもこの時代にはインドから伝来した古典的な方法が主流で、木の板や革を固定して、ダイヤモンドの粉末”ボート”をオリーブ油に溶いてペースト状にして塗り込み、ダイヤモンドの方を手に持って擦っていくという原始的な研磨方法でした。

僅か1mmのファセットを付けるのに約1か月の時間を必要でした。人力での研磨は途方もない作業時間を要したと推測されます。ポイントカットに劈開されたダイヤモンドのファセットを平らに研磨する、それだけで当時としては大変画期的な事でした。

表面を仕上げる事が出来る様に成った事でダイヤモンドの高硬度から発揮される表面光沢や高い光の屈折から美しい輝きが生まれる事が判り、宝石としての魅力に注目が集まり貴族たちの間で話題となります。そもそもの所有者であったインドの王族たちは8面体のピラミッド型の原石の形に魔よけとしての強い力があると信じていたことから、より美しい結晶系のダイヤモンド派珍重されていたという事もポイントカットの流行に原因していると言われています。
ダイヤモンドは当時もとても希少だったために手にできるものは王侯貴族の中でも一握りで、その存在はたちまち珍重されます。

劈開に失敗すると思わぬ方向へ砕ける事も、、、

ダイヤモンドは等軸状結晶で結晶形の硬さの分だけ劈開方向を持っています。8面のダイヤモンド結晶の劈開と6面のダイヤモンド結晶の劈開は同じ方向では在りません。しかし、この時代の加工者はダイヤモンドの結晶形がどの形かを知ることは出来ませんでした。インドやブラジルの二次鉱床産ダイヤモンドは角が自然に磨かれて丸くなており、結晶形を見定める事は出来なかったのです。※この時代はダイヤモンドがマグマと一緒に地下から運ばれてきている事も判っていませんでした。

8面だと思って6面結晶のダイヤモンドを劈開しようとすると、、、成長線も劈開も8面のそれとは異なるために思わぬ方向へ砕けてしまうことになるのです。ダイヤモンド原石の所有者はへき開失敗のリスクを回避して表面をただ磨くだけの簡単な仕上げを選択する事も少なくありませんでした。

ダイヤモンド テーブルカット

15世紀中期になると、ポイントカットの上下を切断した形のテーブルカットが登場します。テーブルカットを初めて施した職人はテーブルからダイヤモンド内部を覗き込んだ際に内部で反射して跳ね返ってくる今まで見たことも無いような虹の輝きに魅了されたと思います。現在もダイヤモンドの形のほどんどがテーブルカットを施している事は驚きです。

ソーイングの技術を使って最もカット・研磨しやすい八面体面とその次にカット・研磨しやすい六面体面十二体面を見極めてカット(グリーピング)・研磨(ポリッシュ)していきます。

ダイヤモンドの粉末をオリーブ油に溶いてペースト状にした研磨剤をソーイング・マシーン(切断機)を使って切断していました。動力源は人力ペダルや水車や風車、牛などの家畜を使った物など様々でした。ソーイングマシーンは1800年代に蒸気機関式が1900年代に電動が作られますが、それ迄は手動で機械を操作していたためにソーイング可能な範囲はもともと限定的であったと考えられます。原石の形を無視してテーブルを取る作業はこの時代には行えなかったと思われます。
円盤状のソーイング・ブレードに、ペースト状の研磨剤を塗布し固定したダイヤモンドを押し当てると少しずつ研磨できます。
この際、研磨する石自体から出る削り取られたダイヤモンドの粉末がソーイング・マシーン(切断機)のブレードに絶えず再装着されて研磨剤が切れる事のない画期的な仕組み。

ダイヤモンドはソーイング方向と劈開が合わないと全くキズも付かない

テーブルカットに登場したソーイングマシーンですが、切断可能方向にのみ有効な切断方法である事は言うまでもありません。ダイヤモンドは結晶形によって異なる加工可能方向、劈開(へきかい)やグレインをもっていて、この方向に平行にしかソーイング出来ないのです。へき開やグレインに沿わない方向に加工しようとした場合ソーイングブレードが壊れてしまい、ダイヤモンドには傷一つ付きません。

※1990年に1ctのダイヤモンド原石(直径約7㎜)を50:50のセンターソーイングで切断する依頼をした際、その切断に約1週間の時間かかりました。電動の高馬力でもそれだけ時間がかかりますので動力が手動だった15世紀にダイヤモンドをセンターソーイングするのは恐らく1年がかりの大仕事だったと想像できます。

ソーイング・ブレード(上写真)やスカイフ(下写真)等、現在もダイヤモンド研磨の現場で使われる専用の研磨機や、ダイヤモンド研磨専用の器具が開発されたのもこの頃です。
開発したのは当時のベルギーを統治していたブルーゴーニュ公「シャルル突進公」に仕えるこの地に拠点を構えていたダイヤモンド研磨工達でした。

ダイヤモンドこそ権力の象徴であると信じていたブルゴーニュ公国のシャルル突進公。彼に仕えたダイヤモンド研磨師、ルドウィック・ヴァン・ベルケム(Lodewyk van Berken)らの活躍によりダイヤモンドの研磨技術は飛躍的に進化していきます。

ダイヤモンドを研磨するスカイフはベルギーで誕生した。
ダイヤモンド研磨専用の器具スカイフで少しずつ研磨される

15世紀中ごろはソーイング・ブレードの動力源は主に人力や家畜などのアナログ動力で非常に非力でしたが、新たな技術の導入によりダイヤモンド研磨業界は活況となっていきます。更にはスカイフの登場でこの時初めてダイヤモンドに直線的で平らな面を研磨出来る様に成ります。ベルギー・アントワープ、オランダア・ムステルダム、等に多くのカットハウスが出来たのもこのころです。

ダイヤモンドの所有者はダイヤモンドのファセットを研磨して表面光沢を楽しむようになったり、正面(フェイスアップ)から見て左右対称な面(ファセット)を持つように研磨したり、新しいダイヤモンドが数多く登場しました。しかしこれはあくまで原石の形から可能な場合のみで原石を自在に整形するほどの加工動力はこの時代にはありませんでした。そのためこの時代のダイヤモンドは原石の形が丸みを帯びていれば丸く、四角い原石であれば四角く仕上げるのがセオリーでした。

※唯一のダイヤモンドの産地であったインドは二次鉱床のため、等軸状のダイヤモンド原石は異本的に角が落ちて丸い形状をしていました。またはマクルと言う平べったく四角や三角形状の原石も角の無い平たい原石として産出していました。

ダイヤモンドの研磨1
交換用の鋼鉄製のスカイフ フィリッペンス・ベルト
ダイヤモンドに直線的で平らな面を研磨

交換用の鋼鉄製のスカイフを持つのは現代の巨匠フィリッペンス・ベルト氏(写真中)。

マクル原石

16世紀になると、インドからもたらされるマクルと呼ばれる平べったいダイヤモンド原石に面を付けたローズカット(薔薇のつぼみに似ているドーム型のダイヤモンドをローズカットと呼びます。)などのより複雑なカットが登場します。未熟ながらソーイング技術も有りましたが大きなダイヤモンドを真っ二つにしてしまう事は大きなリスクが伴う為に、この時代の人たちも避けたようです。

ダイヤモンドのシンチレーション(鏡面反射)を楽しむこのカットはこの後、ダイヤモンドのグレインや石の内部で最も柔らかい六面体面と次に柔らかい十二体面とがある事などが、一部の腕利きの職人の間で研究され明らかになり、12面、16面、24面、32面とより複雑なローズカットが登場します。

当時は、ロウソクの明かりの元で幻想的に輝くことが求められたため、最先端技術を駆使して作られたローズカットなどの曲線面にモザイク模様のような、「面」をつけたカットが注目の的となり、社交界や貴族の間で大人気となります。

この技術を駆使したベルケムたちブルゴーニュ公国ブルージュの研磨職人達には多くの研磨の仕事がヨーロッパ中の貴族から舞い込みローズカットから生み出されるダイヤモンドの輝きは多くの貴族たちを魅了しました。

ダイヤモンド・オールドシングルカット

その後17世紀にはついにインドのダイヤモンド鉱山が外国人に開放されます。
ダイヤモンド鉱山を管理していたインドのゴルコンダスルタン国ではダイヤモンドの鉱山を兵士に守らせていて、産出するダイヤモンドの内10カラット以上の物だけを特別に輸出管理していたようです。ゴルコンダスルタン国王はダイヤモンドの販売に10%の税を徴収していてダイヤモンド鉱山の運営費用に充てたと言います。
そのダイヤモンド鉱山に埋蔵されているダイヤモンドを買う事が出来ない場合、ダイヤモンド原石を強奪したり盗んだり、ある時は自然災害に見せかけて取り上げようと試みる輩が後を絶ちませんでした。ダイヤモンドを狙うトレジャーハンターたちの間では強奪に失敗してヨーロッパ本国で報告するときに「眼力の強い蛇がダイヤモンドの谷を守っていて、睨まれると石になる」などの言い訳を伝説として語った為に、本当にインドの山奥にはそうした蛇が居ると言信じられていた。この鉱山はゴルゴンダコーラルと呼ばれる鉱山で多くの巨石を世界にデビューさせました。当時ジャン・ダヴェルニエ等多くの冒険者がヨーロッパからインド・ゴルゴンダを目指しました。

コーラル鉱山(ゴルゴンダ)産出と考えられているダイヤモンド一覧

  1. コ・イ・ヌール
  2. グレート・ムガル
  3. ブルーホープ
  4. ヴィッテルスバッハ・グラフ
  5. リージェント
  6. ダルヤーイ・ヌール
  7. オルロフ
  8. ニザーム
  9. ドレスデングリーン
  10. ナサックダイヤモンド


こうしてヨーロッパにも等軸状のダイヤモンド結晶がもたらされるようになると、ダイヤモンドの研磨やカットは器具の進化と共に複雑さを増し、次第に中心から放射線状に多数の研磨面が対称的に刻めるようになってきて、いよいよ現在のダイヤモンドの形に近づいてゆきます。

しかしこの時代は最初に劈開を見定めてクリーピングし原石を割り、その割れた破片をスカイフなどで磨くのと言うものでした。原石の結晶形が完全に看破出来ていませんでしたので左右対称に割れてくれることは稀だった為、対象に研磨された品物はもともとの原石が良かったことも有り特別に珍重されました。

上図の様に大きなテーブルファセットを取ることは出来なかったため、現存する17世紀のダイヤモンドはもっとテーブルの小さな形が殆どです。これはソーイング技術と動力が弱かったことで超硬素材のダイヤモンドの形を自在に整えることが困難だったという事を示しています。この時代テーブルカットの稜線を研磨して、クラウン部分にテーブルとベゼル・ファセットを8面、パビリオンにキューレットとパビリオン・ファセットを8面つけたオールドシングルカットが登場しました。

ダイヤモンド・マザラン・カット

17世紀後半には、マザラン・カットが登場しました。マザラン・カットはスター、ベゼル、アッパーガードル、ガードル、アンダーガードル、メインパビリオン、キューレットの7項目を備えた最初のブリリアントカットでした。またこの時代ブラジルのミナスジュライス州でダイヤモンド鉱山が発見され多くのダイヤモンド原石がヨーロッパへ持ち込まれるようになり沢山の加工経験が出来るようになりました。

枢機卿ジュール・マザランは、17世紀フランス王国の政治家でした。イタリア人でしたがフランスで活躍した彼はパリに時代に先駆けてダイヤモンドの研磨工場を作ろうと働きかけた人物だと言います。

マザランは当時イタリアのヴェネチアで活躍していたダイヤモンド研磨工達の存在に目をつけ、彼らにこのダイヤモンドの研磨を依頼します。中でも腕利きの研磨工だったVincent Peruzzi(ヴィンセント・ペルッチ)等の活躍でマザランカット(ダブルカット)が誕生します。

マザランもまたダイヤモンドの輝きに魅了された一人だったのでしょう。
ほどなくダイヤモンド内部に入射した光が、パビリオン部分で反射してクラウンから出る事になるダイヤモンドのブリリアンス(全体の輝き)に注目が集まり、どの様にしてブリリアンスを引き出すかがカットのテーマに成って行きます。
また、変五角形のプリズムが発見されたのもこの頃で、同時にディスパージョンの研究も進みます。

このマザラン・カットは、オールドシングルカットからのステップアップカットでダブルカットブリリアントと呼ばれたりします。
ブリリアントの名前が最初に付いた事から最初のブリリアントカットと呼ばれ、ダイヤモンドの持つ高い光の屈折率によって生み出される虹色の輝きや、物質上最高硬度であることから生まれる平滑度の高い研磨面から、跳ね返る強い光に注目が集まり研究が進みました。

こうしたダイヤモンド研磨の飛躍的な技術革新をもたらした ヴェネチア(ベネチア)の研磨職人 Vincent Peruzzi(ヴィンセント・ペルッチ)たちはダイヤモンド結晶の方向を見定めると同時に、研磨技術を更に進化させそれまで謎だった研磨可能な方向をどんどん解明していきます。

結果的にペルッチはこの後マザランカットのクラウン部分のファセットを17から33まで研磨することに成功して研磨済みダイヤモンドの輝きを大きく飛躍させる事になります。

ダイヤモンド・オールドマインカット

17世紀末登場したオールドマインカット(トリプルカットとも呼ばれる)はマザランカット(ダブルカットブリリアント)の進化系としてベネチアの研磨職人Vincent Peruzzi(ヴィンセント・ペルッチ)によって編み出されました。
17だったクラウンファセットを33まで増やしたことも画期的でしたが、オールドマインカットにはそれまでにはない新しい技術が導入されました。

それはブルーティングという新しい技術で、これを駆使して正面から見たダイヤモンドの輪郭を丸く仕上げる事でした、この発見は現在のブリリアントカットの原型になっていると言われています。この時初めてダイヤモンドカット・デザインに曲面・曲線が加わります。

最初は、原石を旋盤状のダイヤモンドを固定する器具(ドープ)にセットし、もう一つの研磨用ダイヤモンドを、セットした工具に押し当てて高速で回転させ、テーブルを正面に見たダイヤモンドの外周を丸く曲線状に仕上げていました。
ダイヤモンドのガードル部分を仕上げると言う意味で、ガードリングとも言われます。当時は、人力ペダルが動力源でしたのでペルッチ達研磨職人のガードリング作業は気の遠くなるような途方もない時間を必要とするモノだったと思われます。

現在のブルーティングマシーン
ブルーティング

現在のブルーティングマシーン、最新のダイヤモンドの研磨ではガードルを決めることでベースサイズを決めて、ベースサイズを元にテーブル径を決めてソーイングしていく流れなので、このブルーティングはダイヤモンドカットにおいて最初に施される加工なのです。

ダイヤモンドに新しい輝きを与えるのはいつもその時代で最高の技術を持ったダイヤモンド研磨師なのです。

ダイヤモンド・オールドヨーロピアンカット

18世紀初めには、オールドマインカットを進化させたオールドヨーロピアンカットが登場します。
さらにブルーティング技術が向上し、テーブルを正面に丸い形状に仕上げる事が出来る様になります。58面体に研磨されたこのカットは現在のラウンドブリリアントカットのルーツと呼ばれています。※当時左右対称に仕上げる事が出来たダイヤモンド原石は非常に希少で限られていました。
オールドヨーロピアンカットはテーブルが狭くデプスが深いのでカラットサイズに対してフェイスアップではやや小さく見えるのですがディスパージョンはそれまでのカットに比べて強く出るのが特徴です。
ダイヤモンドの発揮する虹色の分散光は他の宝石には無い特別な輝きで人々を魅了しました。

しかしこの時代はそれまでダイヤモンドの供給国であったインドやブラジルの鉱脈枯渇という決定的な問題に直面します。アントワープやアムステルダムで台頭したダイヤモンドカッティングハウス(ダイヤモンド切断業)は供給不足(停止)によって未来の見通せない状況に成っていきます。

“beauty verses weight”美しさの追求

1850年代にアメリカ・ボストンのダイヤモンドカッティングハウスでマスターカッターを務めるヘンリーDモースは、それまでに市場に出回った古いカットのダイヤモンドを”リカットして仕上る”という新しい業態をスタートさせます。これは鉱山の枯渇で供給停止に陥っていたダイヤモンド業界にとって画期的な事でした。モースはビジネスパートナーのチャールズ・M・フィールドと共に蒸気機関動力のブルーティングマシーンを開発して左右対称のダイヤモンドの仕上げ技術を飛躍的に向上させます。

ダイヤモンドの運命を変える光学理論との出会い

1870年ダイヤモンドの運命を大きく変える出来事が起こります。それは”ヘンリーDモース”がドイツの”カール・フリードリヒ・ツァイス(Carl Friedrich Zeiss 1816-1888)の光学理論を学んだことです。
(ツァイスはドイツの光学機器製造業者で、現代のレンズ作製技術に大きく貢献した人物)この頃までにラウンドカットにブリリアントファセットを施していたモースは”重さよりも輝き重視”のカットスタイルを目指して研究を進めていました。そしてモースは光学機器製造を生業としていたツァイスの光学理論を用いてダイヤモンドの内部で入射した光がどのような反射をして動くのか?を解明し最適なダイヤモンドの形を導き出します。現在のエクセレントカットの元となる理想的な輝きを放つダイヤモンドの誕生した瞬間でした。
1834から顕微鏡を生産していたツァイスですが1866年頃にはドイツの天文学者、数学者、物理学者、実業家でもあったエルンスト・カール・アッベの数学理論を用いて設計したガラスレンズを開発していました。ツァイスはこの後、複数の数学者や光学ガラスを主とする応用無機材料学者フリードリッヒ・オットー・ショット等と共同で様々なレンズの開発で成功していくことに成ります。そして1870年にツァイスの理論を実践したダイヤモンドの光学理論上最適なカットスタイルは”レッドリングルーペ”と呼ばれます。
しかし、レッドリングルーペ理論には問題点が有りました。それは原石をおおきく削り落としてしまってカラットが極端に小さく成る事でした。※現在のエクセレントカットも原石からの目減り率は55%で半分以上のカラットは失われてしまうのです。

それでもモースの仕上げたダイヤモンドの輝きは話題となり貴族の間で人気を博していきます。ダイヤモンドの産地であったインドとブラジルの鉱山でダイヤモンドが枯渇し新しい原石が手に入らないという時代に成るとモースは世界初の”リカット業者”となりそれ迄に販売されたダイヤモンドの再研磨を始めます。ダイヤモンド加工で先行していたベルギーやオランダではカラットと輝きならば、カラットを優先する風潮が有りましたので、モースの推奨する”輝き優先”の考えは当時のベルギーやオランダのダイヤモンド業界では受け入れられないモノでした。
しかし、市場はモースの”カラットよりも輝きの”理論を称賛し受け入れていくことに成ります。ダイヤモンドの所有者は手持ちのダイヤモンドを少しカラットを失ってでも最大の輝きを得るためにモースに再研磨を依頼したのです。

こうしてレッドリングルーペ理論で仕上げられたモースのダイヤモンドは称賛を受け世界で受け入れられていきます。

1888年キャリアの絶頂期に合ったモースですが自宅の火事で不慮の死を遂げてしまいます。自身がTOPの技術者としても活躍していたモースを失ったことでモースのダイヤモンドカットアトリエは1888年に解散してしまいます。産業革命以前の世界では職人は一人一人が一人工の作業をこなす事が通常で現在のような一人の親方に対して多くの作業工が作業する工場スタイルは未だ在りませんでした。しかも超希少素材であるダイヤモンドだけを専業で加工する業者も居なかった時代なのです。レッドリングルーペ理論に繋がる光学研究の第一人者ツァイスも1888年に脳梗塞で亡くなってしまうのは二人の運命のリンクを感じずにはいられません。
この後ダイヤモンドの大規模鉱脈の発見に伴いダイヤモンドビジネスは最初の全盛期を迎える事を考えると、モースの死は業界にっと手も大きな損失だったのです。こうしてダイヤモンド業界は当時最高のカット・研磨技術と知識をもった職人を2人同時に失ってしまったのです。こうしてレッドリングルーペ理論は所在不明のまま不完全な理論だけがダイヤモンド業界内で生き続ける事となります。

ヘンリーDモースは「美しさ 対 重さ」という新しい概念をダイヤモンドカット業界に導入したのです。1860年代はダイヤモンドが輝きを重視して加工された最初の時代なのです。現在の考えでは当たり前のダイヤモンドの形を決定するときに原石の目減りを抑えつつも光の屈折値を考えたカットを施すという考え方は当時浸透していませんでした。ダイヤモンドは原石の重さをなるべく失わないように研磨するのがセオリーだったのです。モース達はそれまでに販売された多くのダイヤモンドを”リカット(再研磨)”して元々よりもカラットを失っても元々よりも輝くダイヤモンドを数多く市場に出していきます。

美しさを手に入れたダイヤモンドは1880年代にアフリカでの大規模な鉱脈発見された事で供給停止から回復します。この時アフリカからもたらされたダイヤモンドは最初の1年で それまでにインドとブラジルで採掘されたダイヤモンドの全量を上回る規模でした。ここから本格的にダイヤモンドカット研磨の歴史が動き出します。そしてモースとツァイスの没年でもある1888年には地下資源採掘のデビアスグループが発足します。

※1850年までに世界で発見されたダイヤモンドの総量は約10万カラットだったのに対して南アフリカのプレミア鉱山稼働初年度には300万カラットのダイヤモンドが供給されました。

ダイヤモンド・ラウンドブリリアントカット

正面から見た際のダイヤモンドの輪郭に曲線を付ける事が比較的容易に出来るようになるとダイヤモンドはマーキースカット、オーバルカット、ラウンドカットと研磨面を広げるように改良されていきます。ヘンリーDモースによってデザインされたラウンドブリリアントカットのダイヤモンドはそれまでに発表されたダイヤモンドと比べて明らかに低いクラウン部分をしており、歩留まりよりも美しさを優先する形でした。

19世紀はダイヤモンドの美しい輝きを引き出す加工が始まった時代。

驚くべき事にヘンリーDモースのカッティングハウスで加工された当時のラウンドブリリアントカットダイヤモンドを20世紀以降にGIA提唱した最新型のエクセレントカットと比較した際に技術的なファセットラインの良し悪しを除いてほとんど改善の余地がなかったと言います。
そして20世紀(1919年)に入り、光学理論と数学によってダイヤモンドの理想的な形がマルセル・トルコフスキー(Marcel Tolkowsky)の著書「ダイヤモンドデザイン」の中で発表されます。
当時としは画期的だったマルセル・トルコフスキーの考案したダイヤモンド設計図は、

  1. カットされたダイヤモンドのクラウン部分から石内部に入射した光をパビリオン面で2度にわたり全反射させ、ほぼ100%クラウン部分に戻すためのパビリオンメインファセットガードル平面の作る角度
  2. クラウン・ファセットから分散によってできるだけ多くの虹色が現れるようなベゼル・ファセットとガードル平面の作る角度
  3. 主にテーブルから出射するブリリアンスと呼ばれる白色光の輝きと、ディスパージョン(光の分散)。またはファイアと呼ばれるスペクトル・カラーのバランス

以上の三点を総合的に考えて、ガードル直径の53%をテーブルパーセントとするデザイン案が、ダイヤモンドから最高の美しさを引き出すカットであるとし、これ以降さまざまなダイヤモンド研磨師たちが試行錯誤を繰り返し最高の輝きを追い求めるようになりました。

マルセルト・ルコフスキー氏のダイヤモンドデザインで論じられた”アイディアルカット”は彼の従兄弟で天才的なダイヤモンド・カッター”ラザール・キャプラン氏”によってカット・研磨されます。ラザール・キャプラン氏はダイヤモンドデザインの中で特にオーバルカットで高い評価を得ました。彼のカット研磨するオーバルブリリアントのダイヤモンドは”オーバルエレガンス”と呼ばれ特別に評価れされました。マルセル・トルコフスキー氏のダイヤモンド理論”アイディアル”はヘンリーDモースのレッドリングルーペ同様に原石の多くを削り落してしまう形だった為に世界では輝き重視に傾倒しつつ重さの重要性も同時に再度議論される事となったのです。
※現在のラウンドブリリアントカットも八面体の原石から50%以上が失われてしまいます。

この時代、世界では「産業革命」と呼ばれる資本主義確立期の大変革が起こり、それまで手動や水車や牛などの動力源が、蒸気機関や電気等が使われるようになり、ダイヤモンドの世界にもそれぞれの工程を分業や協業をおこない、多くの人員を集めてより効率的に生産を行うマニュファクチャと呼ばれる研磨工場が多数出現しました。

マニュファクチャーでは一人のマスターカッターを中心に、多くの工夫が各作業工程を担当する現在の形の基礎となりました。サイトホルダーの誕生もこの頃です。

ダイヤモンド・ブランドと呼ばれる企業が登場するのも産業革命期のこの時代です。それまでは分業していなかったダイヤモンド研磨を流れ作業に変えて分業化しダイヤモンドジュエリーの普及に尽力した偉人たちです。

しかしこの後、第一次世界大戦が勃発するとダイヤモンド研磨の中心地だったベルギーはドイツに完全に占領されてしまい、第二次大戦が終戦するまでベルギー・アントワープのダイヤモンド産業はその機能を失ってしまいます。その結果ベルギーで発祥したほとんどのダイヤモンドマニュファクチャーがオランダやアメリカ・イスラエルを拠点に活躍することになります。

またこの頃から、ダイヤモンドはロウソクやガス灯ではなくシャンデリアや電球などの明かりの元でより輝くことが求められて行きます。
そして鉱山の安定操業も手伝ってダイヤモンド原石の供給が安定すると共に少しづつですがダイヤモンドは一部の王侯貴族だけの持ち物ではなく、経済的な成功を収めた一般の人たちの手にも渡るようになります。

実際は正面から見て丸型のブリリアントカットは相当な数の亜型が横行していました。そのどれもが自称最高の美しさを謳って販売されていましたので市場は中々混乱したのも事実です。

ダイヤモンド・エクセレントカット

1990年にエクセレントカット、1993年にハートアンドキューピッドが登場します。
マルセル・トルコフスキー(Marcel Tolkowsky)の「ダイヤモンドデザイン」で発表されたデザイン案から実に69年後の1988年、ダイヤモンドのグレードなどの基準を決める教育機関G.I.A.(Gemological Institute of America)により、ついにダイヤモンドのカットグレードエクセレントの基準案が発表されます。

トルコフスキー理論”アイディアルカット”は”エクセレントカット”が発表される直前の1980年頃までダイヤモンドの鑑定鑑別と教育を手掛ける国際的な機関G.I.A.が宝石学の教材で「理想的なカット比率」として教えるカットグレードシステムで、事実ダイヤモンドの教育機関で国際基準4Cを提唱したG.I.A.でも理想的なダイヤモンドの形として教科書に採用していました。
しかし1980年ダイヤモンドの光学研究が進むと、トルコフスキー理論”アイディアルカット”には不完全な部分が有る事が判明します。そこでGIAは1980年にトルコフスキー理論”アイディアルカット”を教科書から外し、独自に最高のダイヤモンドのフォルムについての研究を進めます。

同時に1988年に発表したラウンドブリリアントカットを持って【アンモディファイトラウンドブリリアントカット】と定義し、それ迄に開発された様々なラウンドブリリアントカット(トルコフスキー案含む)を全てモディファイテッドラウンドブリリアントカットとして定義したのです。これによってラウンドブリリアントカットが現在の58面フィニッシュがスタンダード化したのです。

1988年はヘンリーDモースの死から丁度100年の節目のタイミングでした。G.I.A.によって最高グレードが再考案され、エクセレントカット理論がダイヤモンドの評価基準として整備されることに成ります。それまでダイヤモンドのカットグレードは評価基準にはカウントされていませんでした。ダイヤモンドの評価は現在の4Cではなく、重さ、色、透明度の3項目(3C)のみの評価だったのです。1988年こうしてアイディアルカットに代わってエクセレントが理想的なダイヤモンドの形として定義されたのです。

当時日本では、AGL(一般社団法人 宝石鑑別団体協議会)により先行してダイヤモンドのカットグレードが施行されていましたが、世界的なダイヤモンドのグレードを定めていたG.I.A.基準ではカットグレード自体の採用が無く、AGL基準の国内鑑定は4C、G.I.A.国際鑑定は3Cというダブルスタンダードの状態になっていました。

それは、マルセル・トルコフスキーの「ダイヤモンドデザイン」で発表されたデザイン案を含め、それまで発表された最も美しいと評された数々のダイヤモンドは理論上の最高では無かった事や、その中で美しさの優劣を決める事が出来なかったという理由からでした。
そのため、前述の通り市場には自称最高の輝きのダイヤモンドが多く出回り、小売業者や卸売業者はもちろん、消費者にとっても判断の難しい状況が続いていました。

そこでG.I.A.では、1988年カットグレード・エクセレントを、ダイヤモンドの光学的な美しさのバランスにおいての最高品位としてランク付けし、カットグレードを決定、制定していきました。G.I.A.のカットグレードはエクセレント、ベリーグット、グット、フェア、プアの5段階で評価される仕組みです。

これにより、先行していた日本国内のAGL基準ダイヤモンド・カットグレードもそれに倣(なら)う形となり、現在はG.I.A.基準で国内も統一されAGL基準は廃止されてしまいました。ラウンドブリリアントカット ファセット名 ダイヤモンドは由緒正しきボツワナ産IIDGRデビアスグループBRIDGE銀座

G.I.A.のエクセレントカット発表により、最高グレードの定義が決定されダイヤモンドのカットと研磨の歴史と変遷は一応の終着となったのです。
現在、ダイヤモンドを価格決定する際に基準として用いられることの多いラパポートレポート上では、同グレードの3EX(トリプルエクセレント)とEX(エクセレント)では5%取引価格に差異が有ります。
これは実際にトリプルエクセレントのダイヤモンドの価値がそれ以外よりも高いことを意味します。

フィリッペンス・ベルト
フィリッペンス・ベルト氏/1988年以降、前述しているダイヤモンドのカットと研磨に携わるすべての事業者、もちろんサイトホルダーやダイヤモンドのマニュファクチャ研磨工場・カッターズブランド等は、競ってG.I.A.の発表したエクセレントグレードの開発競争に突入します。

非常に高い技術を要求したG.I.A.のエクセレントカットのガイドラインは当時の最先端技術を駆使して名売手のカッターや研磨師達全てが挑戦したと言っても過言ではなかったそうです。しかしその狭き門を開けて頂のカットグレードを達成する者はなかなか現れませんでした。

そして1988年ダイヤモンドのカット・研磨において最高レベルの技術を持つベルギーのダイヤモンド業者は威信をかけてエクセレントカット達成に動き出します。当時ベルギーで活躍していた技術上位者2,000名の中からTOPチームを発足しエクセレントカット達成に挑んだのです。そのTOPチームでリーダーに選出されたのがフィリッペンス・ベルト氏です。

そして2年後の1990年ベルギー・アントワープのダイヤモンド研磨師フィリッペンス・ベルト(philippens herbert)率いるダイヤモンド研磨のTOPチームの手によって初めて達成されます。

当時、レーザー光線の研究上重要な発見があり、高強度レーザーの発振が可能になります。
それまでは研磨不能だった結晶学上無視できなかったグレインを無視して、ダイヤモンドを思う方向に焼き切る事が出来る「レーザーソーイング」という新しい技術が導入されたことも、エクセレントカット達成の大きなきっかけとなりました。

レーザーソーイングBRIDGE

レーザーソーイングの導入は、それ迄グリーピングして”割る”しか出来なかったダイヤモンド原石の初期加工を想い通りの方向に自在に切断できるようする技術でした。グレインを見定めてダイヤモンドをカットする従来のグリーピング技術はレーザーソーイングに比べて成功率が著しく低く貴重な原石を砕いてしまう事もしばしばでした。カッターズブランドを興した偉人たちは殆どがグリーピング職人でした。彼らの様な高い経験と技術をもってしても失敗の確率は払しょくできませんでしたが、レーザーの導入で安全にダイヤモンドを切断できるようになったのです。

レーザー技術の革新で、現在では”ダイヤモンドカッター”と言う職業は事実上消滅、無くなってしまいました。

しかし依然ダイヤモンドの研磨は最先端技術と他に独自のノウハウと職人の熟練と技術を必要とするために エクセレントカットの研磨をコンスタントに達成できる職人はなかなか現れませんでした。
そんな中次々とエクセレントカット研磨に成功したフィリッペンス・ベルト氏は、その後世界各国で技術指導をし研磨の技術を広め、エクセレントカットのスタンダード化に貢献していきます。

究極的な愛の輝きハート&キューピッド

また、エクセレントカットのダイヤモンドを多く仕上げる中で、不思議な模様ハートアンドキューピッドが浮かび上がることが分かってきました。
当初、別の名前でプロモーションされていましたが、商標の問題で現在はハートアンドキューピッドと呼ばれとても高い人気を誇ります。
フィリッペンス・ベルト氏は、その発見から開発にも携わります。

銀座のダイヤモンド

そしてフィリッペンス・ベルト氏はエクセレントカット達成の3年後、1993年にはハートアンドキューピッドパターンを完成させました。

  • ラウンド、円には終わりがない、それと同様に愛にも終わりがない
  • 実はハートマークが秘められたダイヤモンドである
  • 永遠の輝きを放つ愛を内蔵している
  • 愛の使者キューピッドによってハートは射止られている

など、愛の逸話をいくつも持つハートアンドキューピッドパターンですが、ダイヤモンドのカットグレードの内シンメトリー(対称性)が特に優れていれば、カットグレードがエクセレント以下のベリーグットでも、クラウン部アッパーガードルファセットとパビリオン部ローワーガードルファセットの先端が一致している事や、カイトやスター等複数存在する同種のファセットの形が合同一致している状況であれば出現することが分かっています。

ハートアンドキューピッドはダイヤモンドのクラウン部分とパビリオン部分のガードルを挟んだファセット稜線の一致や連続性など特に仕上げの問題でその良し悪しが決まるのです。
研磨職人の腕前という意味では研磨の各ファセットの角度調整や先端の一致など細部の細かな調整が重要な要素であるハート&キューピッドパターンを【狙って出す】事こそ高い研磨技術が要求さる職人の世界と言えるのかもしれません。

ハート&キューピッドがこの時まで出来なかった理由はダイヤモンドのポリッシュが分業制だった事も大きく影響しています。ダイヤモンドの58ファセットすべてを研磨できる職人を”マスターカッター”と呼びます。
現在でもマスターカッターは世界にそう多くは居ません。自身でダイヤモンドの全面を仕上げるベルト氏はファセットラインの不一致があまり美しくないと感じ、全てのファセットラインの一致を試みます。するとガードルを挟んだファセットの稜線を整えたダイヤモンドと整えないダイヤモンドでは明確に見え方に違いがある事を発見します。それがハート&キューピッドの発見につながるヒントとなったのです。

ハートアンドキューピッドパターン1
ハートアンドキューピッドパターン2

人間の目で美しい輝きと感じる為には輝きには濃淡が必要です。ハート&キューピッドはフェイスアップで8本の光の矢模様が出現します。そしてそれは光の濃淡で表現されるのです。その為、ハート&キューピッドの無いダイヤモンドとハート&キューピッドのダイヤモンドでは明らかに美しさに違いが出るのです。この事は世界中の消費者に一目瞭然に判る事でした。ハート&キューピッドはこうしてダイヤモンド加工のスタンダードとして認知されていくのです。

ダイヤモンドの国債的な評価基準が4Cになる

2006年、G.I.A.によるカットグレードがついに導入され、それまで国内4C、世界3Cというダブルスタンダードは解消されました。
さらにカットグレードエクセレントの決定基準項目も細かく決定され、それによりラウンドブリリアントカットのダイヤモンドにおいて最高位のカットはトリプルエクセレントとなりました。

トリプルとは、カットの総合評価ポリッシュ(表面の研磨状態)研磨済みダイヤモンドの対称性の3項目の評価が全て最高のエクセレントの場合、そのダイヤモンドをトリプルエクセレントカットと呼びます。

冒頭にも述べましたが、ダイヤモンドの輝きは、ブリリアンス、ディスパージョン、シンチレーションの3要素で構成されています。簡単に言うとブリリアンスは全体の輝き、ディスパージョンは光の分散、シンチレーションは鏡面反射、この3要素のバランスがダイヤモンドの輝きを決めていて、そのうちどのバランスをもって最高品位とするかをG.I.A.が定めたことでダイヤモンドのカット歴史との変遷はここに一応の結末を見る事となりました。

2006年当時フィリッペンス・ベルト氏は大手サイトホルダーの専属研磨師としてエクセレントカット普及のために技術指導し世界中を回ります。そして2010年自身の研磨工場に戻りダイヤモンド研磨の活動を続けています。BRIDGEでは2013年からフィリッペンス・ベルト氏を専属研磨師に迎えたダイヤモンドブランド「アントワープブリリアント」を展開しています。

アントワープブリリアントではブリリアンス、ディスパージョン、シンチレーションのバランスが最高に整ったダイヤモンドにみられるファイヤーも重要視してダイヤモンドを厳選しカット研磨しています。

エクセレントカット、ハート&キューピッドをその手で生み出した巨匠フィリッペンス・ベルト氏は2018年大手サイトホルダーの要請でプリンセスカットのカットグレード”トリプルエクセレント”の開発にも参加して達成させています。ダイヤモンドは設計図は書けても誰がそれを実現できるのか?がとても難しい素材なのです。フィリッペンス・ベルト氏によって仕上げられた究極的な美しさのダイヤモンドをぜひ店頭で確かめてください。

⇒フィリッペンス・ベルト氏についてもっと詳しく

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