ヘンリー D モース(Henry D Morse)
ダイヤモンドに輝き重視の考えを持ち込んだ偉人
ヘンリー D モース(Henry D Morse)1826-1888:アメリカのダイヤモンドデザイナー・ポリシャー・マスターカッター・アメリカのボストンを拠点に活躍した有名なダイヤモンドカッターであり、ダイヤモンドカットの科学とスキルの大きな進歩を実現したレジェンド。歩留まり(重さ)よりも輝きを 世界で初めて提唱した研磨者でもある。輝きを追い求めた彼はそれまで困難だったガードル設定の概念を業界持ち込みました。ダイヤモンド加工機材の動力問題と研磨熱問題を解決した蒸気機関式のブルーティングマシーンを1876年に新しく開発した研究者でもあるのです。
ブルーティングマシーンを発明した事で、それ迄カット(クリービング)して”磨く”しか出来なかった超硬素材ダイヤモンドに輪郭を自由に設定できるという選択肢を作り出したのです。これにより左右対称のダイヤモンドかとスタイルが流行します。同時にそれ迄直線的な仕上げしか出来なかったダイヤモンドに曲線の仕上を施す事も出来るようになり、原石に沿って平行(四角)にしか研磨できなかったダイヤモンドを自在に加工できるようになっていきます。手始めに四角から向かい合う2辺を研磨したボート型のマーキーズ、そして4面すべてを研磨した小判型のオーバル、更に丸型のラウンドと徐々に丸く加工する事に成功します。こうして1850年以降ダイヤモンドの新しい形がモースのブルーティングマシーン開発によってデビューしたのです。
ヘンリーDモースが活躍した1870年代、当時超硬素材で宝石として注目を集めるダイヤモンドという希少鉱石の供給がブラジル鉱山の枯渇問題で供給不足となり同時にインドの鉱山も枯渇し原石の供給がほぼゼロに陥ってしまいます。僅かにその他の産地のダイヤモンドが有る程度でほとんど供給されなくなったダイヤモンドですが、直後に南アフリカで発見され、その後1890年には安定的に採掘され始めるまでの特殊な時代背景でした。
紀元前7世紀から19世紀、アフリカ以前に発見されたダイヤモンドの総量は10万カラットです。超貴重な地下資源であるダイヤモンドを研磨やカットで小さくする事は出来るだけ避けるべきとの考えが主流だったのです。アフリカでダイヤモンド鉱山が発見されると年間1000万カラット単位のダイヤモンド産出が有り、それ迄の供給不足が嘘のようにダイヤモンドは劇的に人類に広がっていくのです。
ダイヤモンドカッター(カッティングハウス)という職業は19世紀前半に先行し巨大な成長を見たロンドン、アントワープ、アムステルダムのヨーロッパが中心でした。需要に対して供給が不安定なために安定的な仕事ととなりえなかったダイヤモンド切断業ですが、アフリカの鉱脈稼働によって息を吹き返したのです。
モースはそれ迄、研磨熱の問題で小さく切断して仕上げる事がセオリーとされていたダイヤモンドの古典的な切断方法に疑問を抱き新しい切断方法が無いのか研究します。
しかし供給が不安定で謎に満ちた素材であったダイヤモンドの研磨や切断といった事業に懐疑的だった当時のアメリカ産業界ではモースを助ける者はあまりいませんでした。事業としての将来性が確保されていなかったからです。それでもモースは事業家B.S.Peryを説得しアメリカで最初のダイヤモンド研磨と切断を専門とする企業モールス・ダイアモンド・カッティング・カンパニーを設立、オランダ・アムステルダムから名売てのダイヤモンドカッターやポリシャーを招聘してカッティングハウス事業をスタートさせます。
“Beauty vs Weight” 重さ 対 輝き
ヘンリーD.モースは「美しさ 対 重さ」という新しい概念をダイヤモンドをカット業界に導入したのです。現在の考えでは当たり前のダイヤモンドの形を決定するときに原石の目減りを抑えつつも光の屈折値を考えたカットを施すという考え方は当時浸透していませんでした。ダイヤモンドは原石の重さをなるべく失わないように研磨するのがセオリーだったのです。モース達はそれまでに販売された多くのダイヤモンドを”リカット(再研磨)”して元々よりもカラットを失っても元々よりも輝くダイヤモンドを数多く市場に出していきます。
1866年にアフリカでダイヤモンドが発見されるまではインドとブラジルがダイヤモンドの主要産地でした。しかし、鉱脈枯渇の問題でダイヤモンドの希少性が爆発的に高まっていた時代でもあるのです。その為モースは”リカット”する事で古典的なカットであまり輝かなかったダイヤモンドを現代カットに仕上げなおして”より輝かせる”ビジネスを展開したのです。
この考え方は後にマルセル・トルコフスキーのべリーグットカット、G.I.A.のエクセレントと理想的なダイヤモンドのプロポーションが解明される大きなきっかけとなったのです。
当時のダイヤモンド研磨界の重鎮たちには考えも及ばなかった美しさを優先した研磨プロセスでしたが確実に市場に受け入れられて行くのです。モースの研磨理論は”レッドリングルーペ”と呼ばれ新しいカットスタイルへと進化していきます。
何を持って美しいとするか?を市場に問いかけたモースの考えは当時のダイヤモンド研磨業界に大きな衝撃を与える新しい考え方でした。新たなダイヤモンドが採掘されなかった時代としては当然の流れだったかもしれません。そうした動きの中で1919年にはマルセル・トルコフスキーによってダイヤモンドの光学特性を計算して最適なダイヤモンドの研磨角度がダイヤモンドデザインで発表されるのです。
驚くべきことに1916年にモースのビジネスパートナーでブルーティングマシーンの共同開発者でもあったチャールズ・M・フィールドが研磨したダイヤモンド(モールス・ダイアモンド・カッティング・カンパニーのダイヤモンド)は現行のエクセレントカットと比較してもそん色のない輝きを放っていたのです。それについて2000年代に発表された文献の中に「ボストンのヘンリーモースが華麗な光が入ってきた光に与える影響について本当に科学的な研究を行い、可能な限り最高の結果をもたらす角度を見つけていた。
彼が発見したダイヤモンドのプロポーションには改善の余地はほとんど残っていません。私が見た5カラットのすばらしいモールスカットは、最近カットされた石の中で見つかるダイヤモンドと同じくらいハンサムです。線と角度は洗練されていて完璧ですが、現行のアイディアルカットのプロポーションは、モールスの研磨理論にアイディアを得たのでは無い筈だ。」と記されています。
そして更なる転機が訪れたのは1869年バージニア州リッチモンドのほぼ向かいにあるマンチェスターで20カラットもの大粒のダイヤモンド原石が発見されます。持ち主だった発見者のムーア氏は幾つかの鑑定機関でこの原石がダイヤモンドであることが証明されると(諸説ありますが産地については完全に不明)研磨してくれる人物の選定を始めます。当時アメリカの宝石鑑定の権威だったサミュエルW.デューイもダイヤモンドであることは間違いないとしました。
しかしこの原石には2つの大きな欠陥があるために当時世界中で活躍するあらゆるダイヤモンドカッター・マスターカッターはこのダイヤモンド原石をいくつかの小さいサイズに裁断して研磨すべきとの見解を示していました。逆に一つの大きなダイヤモンドにカット研磨することは不可能だと思われていたのです。しかし研磨の依頼を勝ち取ったヘンリーDモースは独自の理論アプローチでダイヤモンドを研磨するプランを立てます。
そしてモースは50%以上の歩留まりを保った12カラットの一つの大きなラウンドブリリアントダイヤモンドの研磨に成功します。発見者でこの時まで持ち主だったムーアはこのダイヤモンドをサミュエルW.デューイに売却します。デューイはこのダイヤモンドをデューイダイヤモンドと命名しました。新しい動力で稼働するブルーティングマシーンを駆使して仕上げられたデューイダイヤモンドは当時驚嘆をもって世界に紹介されたのです。
モースのダイヤモンドの評判は瞬く間に世界へ広がり、美しく研磨されたモースのダイヤモンドに注目が集まり世界中のダイヤモンドジュエラーから依頼を受け研磨するようになります。モースの発明で対称性を重視したアッシャーカットが新たに開発されたり(1902)やバケットカットやエメラルドカット等のステップカットは飛躍的に生産性と正確性が向上し再注目を集めることになります。
運命を変えるカール・ツァイスとの出会い
1870年ヘンリーDモースの運命を大きく変える出来事が起こります。それはドイツのカール・フリードリヒ・ツァイス(Carl Friedrich Zeiss 1816-1888)との出会です。(ツァイスはドイツの光学機器製造業者で、現代のレンズ作製技術に大きく貢献した人物)光学機器製造を生業としていたツァイスとの共同開発でヘンリーDモースはダイヤモンドの内部で入射した光がどのような反射をして動くのか?を研究し最適なダイヤモンドの形を導き出します。現在のエクセレントカットの元となる理想的な輝きを放つダイヤモンドの誕生した瞬間でした。
1834から顕微鏡を生産していたツァイスですが1866年頃にはドイツの天文学者、数学者、物理学者、実業家でもあったエルンスト・カール・アッベの数学理論を用いて設計したガラスレンズを開発していました。ツァイスはこの後、複数の数学者や光学ガラスを主とする応用無機材料学者フリードリッヒ・オットー・ショット等と共同で様々なレンズの開発で成功していくことに成ります。そして1870年にツァイスとモースの開発したダイヤモンドの光学理論上最適なカットスタイルは”レッドリングルーペ”と呼ばれます。しかし、レッドリングルーペ理論には問題点が有りました。それは原石をおおきく削り落としてしまってカラットが小さく成る事でした。※現在のエクセレントカットも原石からの目減り率は55%で半分以上のカラットは失われてしまうのです。
それでもモースの仕上げたダイヤモンドの輝きは話題となり貴族の間で持て囃されていきます。さらにモースは世界初の”リカット業者”となりそれ迄に販売されたダイヤモンドの再研磨を始めます。ダイヤモンド加工で先行していたベルギーやオランダではカラットと輝きならカラットを優先する風潮が有りましたので、モースの輝き優先の考えは当時のダイヤモンド業界では受け入れられないモノでした。しかし、市場はモースの理論を称賛し受け入れていくことに成ります。ダイヤモンドの所有者は手持ちのダイヤモンドを少しカラットを失ってでも最大の輝きを得るために我先にとモースに再研磨を依頼したのです。
こうしてレッドリングルーペ理論で仕上げられたモースのダイヤモンドは称賛を受け世界で受け入れられていきます。
1888年キャリアの絶頂期に合ったモースですが自宅の火事で不慮の死を遂げてしまいます。モースのダイヤモンドカットアトリエは1888年に解散してしまいます。ダイヤモンド業界は当時最高のカット・研磨技術をもった職人を失ってしまったのです。こうしてレッドリングルーペ理論は所在不明のまま理論だけがダイヤモンド業界内で生き続ける事となります。
こうしたダイヤモンドの研磨を成功させたことでヘンリー D モースは”アメリカダイヤモンド研磨界の父”と言われるようになるのです。