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今回は、ダイヤモンドカットの歴史の流れ、ダイヤモンド研磨の偉人の歴史の中でも主に「重さよりも輝き」という新しい概念をダイヤモンドをカット業界に導入し、ブルーティングマシーンを発明したヘンリーDモースをご紹介したいと思います。

 

ダイヤモンドカットの歴史で重要な人物

1 ルドウィック・ヴァン・ベルケム(1400年代)

2 ヴィンセント・ペルッチ(1600年代)

3 ヘンリー・モース(1850年)

4 マルセル・トルコフスキー(1919年)

5 フィリッペンス・ベルト(1990年)

世界最高のカッター、フィリッペンス・ベルト氏が作り出すダイヤモンドの美しさ

 

1 ルドウィック・ヴァン・ベルケム

1400年代、ベルケムによって発明された※ソーイング・ブレードや※スカイフによりダイヤモンドに直線的で平らな面を研磨できるようになります。ソーイング・ブレードは現在もダイヤモンドの研磨の現場で用いられています。その活躍によりダイヤモンドの研磨技術は飛躍的に進化していきます。

※ソーイングとは、八面結晶のダイヤモンドを二分割する際に使う技術のことで、一個のダイヤモンド原石を中央で二分割して(センターソーイング)二個取りにする場合に使用します。

※スカイフとは、ダイヤモンドを研磨する機械。鋳鉄でできた円盤を高速で回転させ、そこにフラックス材に混ぜたダイヤモンドの粉末パウダーを少しずつ塗りこみます。高速回転するスカイフに、ダイヤモンド原石をドップに固定した状態でファセット一面一面を押し当てて石の表面を磨いていく方法です。

 

2 ヴィンセント・ペルッチ

1600年代、マゼランカット、ダブルカット、そして、トリプルカットとダイヤモンド原石の劈開を見抜き、研磨可能なファセットを開発した17世紀最高の研磨の魔術師がペルッチです。17世紀後半にはディスパージョン(研磨済みダイヤモンドの輝きの形容詞。ダイヤモンドの内部に入射した光が屈折反射した虹色の輝き)とブリリアンス(研磨済みダイヤモンドの輝きの種類のうち”ダイヤモンド全体の輝き”の事。)に注目した様々なカットが登場しました。

 

3 ヘンリー D モース

ヘンリー D モース(Henry D Morse)1826-1888

アメリカのダイヤモンドデザイナー・ポリシャー・マスターカッター・アメリカのボストンを拠点に活躍した有名なダイヤモンドカッターであり、ダイヤモンドカットの科学とスキルの大きな進歩を実現したレジェンド。歩留まりよりも輝きを世界で初めて提唱した研磨者でもある。輝きを追い求めた彼はそれまで困難だったガードル設定の概念を業界持ち込み動力問題と研磨熱問題を解決した蒸気機関式のブルーティングマシーンを1876年に新しく開発した研究者でもあるのです。

ブルーティングマシーンを発明したことでそれ迄、カット(クリービング)して”磨く”しか出来なかった超硬素材ダイヤモンドに輪郭を自由に設定できるようになり、左右対称の形が流行します。同時に曲線に仕上げる事も出来るようにな原石に沿って良くて資格にしか研磨できなかったダイヤモンドをマーキーズ、オーバル、ラウンドと徐々に丸く加工する事に成功します。ダイヤモンドの新しい形がブルーティングマシーンの開発によってデビューしたのです。

 

1870年代、当時超硬素材で宝石として注目を集めるダイヤモンドという希少鉱石の供給がブラジルの枯渇問題で供給不足となった直後、南アフリカで安定的に採掘され始めた時代でした。ダイヤモンドカッター(カッティングハウス)という職業は19世紀前半に先行し巨大な成長を見たロンドン、アントワープ、アムステルダムのヨーロッパが中心でした。需要に対して供給が不安定なために安定的な仕事ととなりえなかったダイヤモンド切断業ですが、アフリカの鉱脈稼働によって息を吹き返したのです。

モースはそれ迄、研磨熱の問題で小さく切断して仕上げる事がセオリーとされていたダイヤモンドの古典的な切断方法に疑問を抱き新しい切断方法が無いのか研究します。

しかし供給が不安定で謎に満ちた素材であったダイヤモンドの研磨や切断といった事業に懐疑的だった当時のアメリカ産業界ではモースを助ける者はあまりいませんでした。事業としての将来性が確保されていなかったからです。それでもモースは事業家B.S.Peryを説得しアメリカで最初のダイヤモンド研磨と切断を専門とする企業モールス・ダイアモンド・カッティング・カンパニーを設立、オランダ・アムステルダムから名売てのダイヤモンドカッターやポリシャーを招聘してカッティングハウス事業をスタートさせます。

 

“beauty verses weight”

ヘンリーD.モースは「美しさ 対 重さ」という新しい概念をダイヤモンドをカット業界に導入したのです。現在の考えでは当たり前のダイヤモンドの形を決定するときに原石の目減りを抑えつつも光の屈折値を考えたカットを施すという考え方は当時浸透していませんでした。ダイヤモンドは原石の重さをなるべく失わないように研磨するのがセオリーだったのです。モース達はそれまでに販売された多くのダイヤモンドを”リカット(再研磨)”して元々よりもカラットを失っても元々よりも輝くダイヤモンドを数多く市場に出していきます。

1866年にアフリカでダイヤモンドが発見されるまではインドとブラジルがダイヤモンドの主要産地でした。しかし、鉱脈枯渇の問題でダイヤモンドの希少性が爆発的に高まっていた時代でもあるのです。その為モースは”リカット”する事で古典的なカットであまり輝かなかったダイヤモンドを現代カットに仕上げなおして”より輝かせる”ビジネスを展開したのです。

この考え方は後にマルセル・トルコフスキーによって理想的なダイヤモンドのプロポーションが解明される大きなきっかけとなったのです。

当時のダイヤモンド研磨界の重鎮たちには考えも及ばなかった美しさを優先した研磨プロセスでしたが確実に市場に受け入れられて行くのです。モースの研磨理論は”レッドリングルーペ”と呼ばれ新しいカットスタイルへと進化していきます。何を持って美しいとするか?を市場に問いかけたモースの考えは当時のダイヤモンド研磨業界に大きな衝撃を与える新しい考え方でした。新たなダイヤモンドが採掘されなかった当時としては当然の流れだったかもしれません。そうした動きの中で1919年にはマルセル・トルコフスキーによってダイヤモンドの光学特性を計算して最適なダイヤモンドの研磨角度がダイヤモンドデザインで発表されるのです。

驚くべきことに1916年にモースのビジネスパートナーでブルーティングマシーンの共同開発者でもあったチャールズ・M・フィールドが研磨したダイヤモンド(モールス・ダイアモンド・カッティング・カンパニーのダイヤモンド)は現行のエクセレントカットと比較してもそん色のない輝きを放っていたのです。それについて2000年代に発表された文献の中に「ボストンのヘンリーモースが華麗な光が入ってきた光に与える影響について本当に科学的な研究を行い、可能な限り最高の結果をもたらす角度を見つけていた。彼が発見したダイヤモンドのプロポーションには改善の余地はほとんど残っていません。私が見た5カラットのすばらしいモールスカットは、最近カットされた石の中で見つかるダイヤモンドと同じくらいハンサムです。線と角度は洗練されていて完璧ですが、現行のアイディアルカットのプロポーションは、モールスの研磨理論にアイディアを得たのでは無い筈だ。」と記されています。

そして更なる転機が訪れたのは1869年バージニア州リッチモンドのほぼ向かいにあるマンチェスターで20カラットもの大粒のダイヤモンド原石が発見されます。持ち主だった発見者のムーア氏は幾つかの鑑定機関でこの原石がダイヤモンドであることが証明されると(諸説ありますが産地については完全に不明)研磨してくれる人物の選定を始めます。当時アメリカの宝石鑑定の権威だったサミュエルW.デューイもダイヤモンドであることは間違いないとしました。しかしこの原石には2つの大きな欠陥があるために当時世界中で活躍するあらゆるダイヤモンドカッター・マスターカッターはこのダイヤモンド原石をいくつかの小さいサイズに裁断して研磨すべきとの見解を示していました。逆に一つの大きなダイヤモンドにカット研磨することは不可能だと思われていたのです。しかし研磨の依頼を勝ち取ったヘンリーDモースは独自の理論アプローチでダイヤモンドを研磨するプランを立てます。

そしてモースは50%以上の歩留まりを保った12カラットの一つの大きなラウンドブリリアントダイヤモンドの研磨に成功します。発見者でこの時まで持ち主だったムーアはこのダイヤモンドをサミュエルW.デューイに売却します。デューイはこのダイヤモンドをデューイダイヤモンドと命名しました。新しい動力で稼働するブルーティングマシーンを駆使して仕上げられたデューイダイヤモンドは当時驚嘆をもって世界に紹介されたのです。

モースのダイヤモンドの評判は瞬く間に世界へ広がり、美しく研磨されたモースのダイヤモンドに注目が集まり世界中のダイヤモンドジュエラーから依頼を受け研磨するようになります。モースの発明で対称性を重視したアッシャーカットが新たに開発されたり(1902)やバケットカットやエメラルドカット等のステップカットは飛躍的に生産性と正確性が向上し再注目を集めることになります。こうしたダイヤモンドの研磨を成功させたことでヘンリー D モースは”アメリカダイヤモンド研磨界の父”と言われるようになるのです。

 

4 マルセル・トルコフスキー

1919年、ダイヤモンドの内部の光がどの様な経路を通っているのかを計算した科学者マルセル・トルコフスキーは最も理想的な角度で研磨することを提唱したラウンドブリリアントカットを発表しました。マルセルトルコフスキーが自身の著書「ダイヤモンドデザイン」の中で発表したこの設計図は2次元でダイヤモンド内部の光の進路を計算してあり、特にカイトファセットやスターファセットからの光が入射した場合などが記載されておらず不完全だったのです。しかし、その考え方は多くのダイヤモンド開発者の基礎となり、その後ダイヤモンド業界内で修正と検証が繰り返され1988年に現在のエクセレントカットの素案が※GIAによって決定されました。

※GIAとは、Gemological Institute of Americaの略称です。ジェモロジカル・インスティテュート・オブ・アメリカ。米国カリフォルニア州のカールスバッドに本校を構える世界的な宝石学教育機関と鑑別・鑑定機関、更に鑑定に関する研究を行っている研究所。「米国宝石学会」GIAの宝石鑑定資格保有者をGIAGGと呼びます。

 

5 フィリッペンス・ベルト

1990年、フィリッペンス・ベルト率いるTOPチームが世界で初めてエクセレントカットの研磨を成功させました。誰もが追い求めた「ダイヤモンドを究極的に輝かせること」はベルギー・アントワープの研磨職人フィリッペンス・ベルトによって対に完成され、その後自身が技術指導して世界へ広がっていきます。93年にベルトはハートアンドキューピットも完成させ、ダイヤモンド研磨におけるスタンダードを確立しました。

 

master diamond-cutter Phillippens Herbert is based in Antwerp and make heart&Cupid in 1993

 

1990年当時エクセレントカットの研磨が極端に難しい中、フィリッペンス・ベルト(philippens herbert)は次々とエクセレントカット研磨に成功したベルト氏は、その後世界各国で技術指導するなどダイヤモンド業界内でエクセレントカットのスタンダード化に貢献していきます。またエクセレントカットのダイヤモンドを多く仕上げる中で、不思議な模様ハートアンドキューピッドが浮かび上がることが分かってきました。当初別の名前でプロモーションされていましたが、商標の問題で現在はハートアンドキューピッドと呼ばれとても高い人気を誇ります。フィリッペンス・ベルトはその発見から開発にも携わります。エクセレントカット達成の3年後の1993年にはハートアンドキューピッドパターンを完成させます。

 

ダイヤモンドの輝きはブリリアンス(全体の輝き)、ディスパージョン(光の分散)、シンチレーション(鏡面反射)の3要素で構成されています。この3要素のバランスがダイヤモンドの輝きを決めていて、そのうちどのバランスをもって最高品位とするかをGIAが定めています。世界的な宝石学教育機関と鑑別・鑑定機関が認めたエクセレントカット、そして、ハート&キューピッドを作り出したフィリッペンス・ベルト氏。現在もダイヤモンドを磨き続けている世界最高のマスターカッターであることは、間違いありません。

 

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