いざ、伊香保へ
都内の朝はまだ肌寒く、春の訪れを感じさせながらも、時折冷たい風が頬をかすめる。大也は車のエンジンをかけると、瑞樹の乗る助手席をちらりと見た。彼女は黒のトレンチコートに身を包み、膝の上に小さなバッグを乗せながら、スマホをいじっている。
「じゃあ、行こうか。」
「うん。」
春の陽射しが柔らかく降り注ぐ午前中、大也の愛車RX450hは関越自動車道を北へと走っていた。車内にはJ-POPのポッドキャストが流れ、静かなメロディが緊張した空気をわずかに和らげている。
運転席の大也は、ハンドルを握る手にわずかに汗を感じていた。今日はついにプロポーズを決行する日。温泉旅行という名目で瑞樹を伊香保温泉へ誘い、夜にはサプライズで指輪を渡す。そのはずだった。
ちらりと助手席に目を向けると、瑞樹は窓の外を見つめていた。彼女の表情は穏やかではあるが、どこか落ち着かない様子が見て取れる。瑞樹も、何かを感じ取っているのだろうか。何気なく目を伏せ、ポッドキャストの音量を少し上げる。
プロポーズのことを意識すればするほど、大也の心は妙にざわつく。隣に座る瑞樹も、どことなくそわそわしているように見えた。
車内にはJ-POPのポッドキャストが流れていた。軽快なリズムのはずなのに、二人の間にはどこかぎこちない空気が漂っている。
「なんか、静かだね。」
瑞樹がぽつりとつぶやく。
「そうか?」
「うん。いつもなら、もっとしゃべってる気がする。」
「まあ……なんとなく、な。」
それ以上の言葉は出てこなかった。
瑞樹がこの旅行の本当の目的を察しているのかは分からない。でも、もしかしたら彼女も何かを感じ取っているのかもしれない。そう思うと、大也の緊張はますます高まっていく。
運転に集中しようと、前方に視線を戻す。だが、信号待ちのたびにふと脳裏をよぎるのは、茜と古田との作戦会議のことだった。
「温泉宿でのプロポーズって、すごくロマンチックよね。」
「ただの宿泊じゃなくて、特別な演出を入れた方がいいんじゃない?」
「例えば?」
「夕食後、夜の温泉街を散歩しながら、縁結びの神社に立ち寄るのはどう?伊香保だったら、伊香保神社とかいい感じの場所があるし。」
「神社の境内でプロポーズ?」
「うん、夜だと人も少ないし、静かな雰囲気の中で『これからもずっと一緒にいたい』って言われたら、絶対に感動すると思う!」
「なるほどな……。」
「まあ、それか温泉旅館の部屋でしっぽりと。」
「それだと普通すぎる気がする。」
「じゃあ、貸切露天風呂で!」
「いや、それは……!」
「冗談よ。でも、どんな形であれ、瑞樹ちゃんが喜ぶシチュエーションを考えておくのが大事。」
瑞樹は助手席でスマホをいじるふりをしながら、ちらりと運転席の大也を盗み見た。
ハンドルを握る彼の横顔は、どこかいつもと違う。
いつもなら「お昼は何食べる?」「サービスエリア寄る?」なんて軽い会話をするのに、
今日の大也は、なんとなく口数が少ない。
(もしかして……)
瑞樹の胸が高鳴る。
彼の様子がいつもと違う理由は、なんとなく察しているつもりだけど、、、
考えても仕方がないので気分を変えてみる
「ねぇ、大也?」
「ん?」
「伊香保って、私、久しぶりなんだよね。前に行ったの、大学の友達とだったかな。」
「ああ、そうなんだ。俺も久しぶり。最後に行ったのは……たぶん家族旅行の時だな。」
瑞樹は懐かしそうに微笑んだ。「伊香保の石段街、まだ変わってないかな。」
「たぶん、昔と変わらないと思うよ。温泉饅頭の店とかもそのままじゃないかな。」
「あ、温泉饅頭、いいね。」
ようやく少し会話が弾んできたが、それでも二人の間にはどこかぎこちなさが残る。まるで、何か決定的なことを言い出せずにいるような空気だった。
再びポッドキャストの音だけが車内に流れる。流れてきたのは米津玄師の新曲「Plazma(プラズマ)」。大也の好きなアーティストだ。普段なら思わず口ずさんでしまうのに、今日はそんな余裕もない。
「ねえ、大也。」
「ん?」
「この旅行、なんか特別な理由があるの?」
瑞樹が、スマホから視線を上げてじっとこちらを見つめてくる。
「いや……まあ、付き合って3周年記念だし?」
「ああ、そうか。うん、それもあるね。」
「なんだよ、その言い方。」
「別に。ただ、大也が妙に緊張してるから。」
瑞樹はくすっと笑った。その笑顔に、大也の心は少しだけ和らぐ。
「ねぇねぇ、大也くーん?」
「ん?」
「今日……なんか、変じゃない?」
「えっ?」
瑞樹がじっと大也を見つめる。「なんか、そわそわしてる気がする。いつもなら、もっと普通に話してるのに。」
大也は一瞬ドキリとしたが、すぐに苦笑いを作った。「そ、そうか? たぶん、ちょっと運転に集中してるだけだよ。」
「そう?」瑞樹は少し疑わしそうに目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。
その後、再び沈黙が訪れた。大也は思わずハンドルを強く握る。(バレてるのか?いや、まだ大丈夫だよな……?)
そうしているうちに、車は関越道を降り、伊香保温泉へ向かう山道へと差し掛かった。カーブが増え、景色は次第に山の緑へと変わっていく。
「伊香保の春って、気持ちいいね。」瑞樹が窓を開ける。
「そうだな。」大也も少しだけリラックスし、深呼吸する。
(だめだ、考えれば考えるほど、緊張してくる……)
今日、いよいよプロポーズをする。
数週間前から茜と古田にアドバイスをもらいながら練った計画。
すべては今日、この旅のクライマックスで実行するのだ。内容を整理する。
──大也が立てたプロポーズの予定は、こうだ。
① ホテルにチェックイン
まずは旅館に着いたら、部屋で少し休憩。
瑞樹にリラックスしてもらうためにも、最初から気負わせるのは避ける。
② 石段街を散策
伊香保の名物・石段街を一緒に歩き、温泉饅頭でも食べながら楽しく過ごす。
軽く観光を楽しむことで、二人の空気をほぐすのが狙い。
③ ホテルに戻って夕食、場合によっては風呂
美味しい食事を楽しみながら、自然と会話が弾むように。
温泉に入るのは二人のタイミング次第。
④ もう一度夜の散策へ
夜の石段街は昼間とは違い、しっとりとした雰囲気になる。
人通りも落ち着くので、プロポーズのタイミングを作りやすい。
⑤ 伊香保神社の境内でプロポーズ
縁結びのご利益がある伊香保神社。
ここで、満を持して瑞樹に指輪を差し出し、プロポーズをする。
考えただけで、心臓がバクバクする。
果たして、この計画はうまくいくのだろうか?
(いや、やるしかない。今日が勝負だ。)
大也は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
ちらりと助手席の瑞樹を見る。
彼女はスマホの画面を見つめていたが、その視線がどこか落ち着かないのを感じた。
(瑞樹も……なんとなく、察してるのか?)
その可能性が頭をよぎる。
でも、それならそれでいい。
サプライズとはいえ、大事なのは「驚かせること」じゃない。
「ちゃんと伝えること」だ。
気づけば、伊香保温泉の看板が見えてきた。
温泉街へと続く道を進みながら、大也はそっと左手のポケットを触った。
その中には、先日ブリッジ銀座で古田から受け取った小さな箱が入っている。
(……頼む、うまくいってくれよ。)
彼の胸の中で、緊張がさらに高まっていった——。
→第16話
登場人物:大越大也(おおこしだいや)埼玉県大宮市出身の30歳、趣味はドライブと釣り、行動力が有り何事もまずはやってみるタイプ。
松本瑞樹(まつもとみずき)神奈川県出身29歳、高校時代は名門野球部のマネージャーだったお姫様キャラ。慎重派でよく考えてから行動するタイプ。
瑞樹の友人の茜(あかね)29歳、瑞樹とは高校時代からの地元の友人で気心が知れている。大也とも面識が有り
茜の友人古田あやか(ふるたあやか)茜の大学時代の友人、ブリッジ銀座のスタッフでJJA公認ジュエリーコーディネーター年間100組以上のサプライズプロポーズをプロデュースしている。
山本健司(やまもとけんじ)大也の会社で同期の同僚、同期の中でいち早く結婚に踏み切った。お相手は高校時代からの彼女。
comment