第30話:未来への扉
ダイヤモンドは、記憶を閉じ込める宝石なのだと、あの日、銀座のジュエリーショップBRIDGEで古田が言った言葉だ。
数億年の時を経て地中から生まれたその小さな結晶が、今、瑞樹の左手薬指に光っている。その輝きは、ただの装飾品ではない。伊香保温泉で交わされた想い、大森の新居で大也と語り合った未来、茜と笑い合いながら決めた披露宴の曲——すべての記憶が封じ込められた、かけがえのない証だった。
式場の有るホテルの最上階に設けられたブライズルーム。白を基調とした空間に、瑞樹のドレスの裾がふわりと広がり、右の薬指には”ゆきどけ”の婚約指輪。鏡の前に立つ彼女の姿は、もう“花嫁”以外の何ものでもなかった。
ドレッサーの前に座る瑞樹の背後では、メイクアップアーティストが最後の仕上げをしている。頬に淡いピンクが差され、まつげの先にほんの少しの光が宿るたび、瑞樹は少しずつ心を整えていった。
「……似合ってますか?」
小さな声で聞いた瑞樹に、鏡越しにメイクスタッフが微笑む。「とても。まるで映画のワンシーンみたいです」
「そっか……ありがとうございます」瑞樹は照れたように笑った。
結婚式の本番が始まるまであとわずか。
チャペルの前室では、スタッフたちが控えめな声で進行を確認している。会場に流れる空気には、緊張と高揚とが絶妙に入り混じっていた。
瑞樹は、ふと立ち上がるとカーテンの隙間からチャペルの様子をのぞいた。
参列者たちが次々と着席していくのが見える。母の笑顔、茜が手を振ってくれた姿、大也の会社の同僚たちの談笑――どれもが現実なのに、まるで夢の中の出来事のように遠く感じられた。
「……行ってきます、お母さん」
瑞樹は、ふと心の中でそう呟いた。両親がどれだけこの日を心待ちにしてくれていたか、その思いが、胸にじんわりと広がっていく。
そしてチャペルの扉の裏側。そこには、スーツ姿の父が立っていた。
「……きれいだな」
ぽつりと呟いたその声に、瑞樹は思わず涙が込み上げるのをこらえる。
「……泣いたら、メイク崩れちゃうよ?」
「うん……大丈夫。まだ泣かない」
でも、それはもう、限界だった。
それまでの家族との思い出や、大也から託されたダイヤモンドに閉じ込められたすべての記憶が、一気に胸の奥で再生されたからだ。
小さな頃、手をつないで歩いた商店街。運動会で転んだ時に抱き上げてくれた腕。進学で家を出る日、駅のホームで無言だった父の背中。そのすべてが、今この瞬間、バージンロードの出発点に集まっている。
「いよいよだな」
「うん……バージンロード、よろしくお願いします」
「もちろんだよ。途中で転んだりしたら、俺の責任だな」
冗談めかして言う父に、瑞樹は笑いながらも胸がいっぱいになるのを感じていた。
その頃、大也はチャペルの祭壇の前に立っていた。
グレーと白のタキシードに身を包み、胸元には瑞樹が選んだ小さな白いバラのブートニアが揺れている。
「……大丈夫。今日も、ちゃんと守るよ」
いつものように小さく呟く。そして、あのプロポーズの夜のことを思い出す。
バルコニーに出た瑞樹が寒そうに肩をすくめたとき、自分の上着を何のためらいもなくかけたこと。その時、決めたのだ。
この人を守っていく。
それは、派手なヒーローのようなものではないけれど、日々の生活の中で、少しずつ積み上げていくものだ。
ふたりで選んだ“ゆきどけ”のリングのコンセプトにもあった。急がず、怠けず、ただしっかりと。雪がゆっくりと溶けて、大地に染み込むように。
これからの日々の記憶もまた、ダイヤモンドにゆっくりと刻まれていくのだろう。
大也の視線は静かに、扉の向こうを見据えていた。
横には牧師が控え、スタッフが小声で「あと3分です」と伝えている。
「なんか、心臓がどくどく言ってる」
「大丈夫だよ。新婦の瑞樹さんも同じだと思いますよ」
牧師のひと言に、大也は少し笑って頷いた。
振り返れば、交際してからの3年間は決して順風満帆とはいえなかった。
意見が食い違ったこともあったし、気持ちがすれ違ってしまう夜もあった。
でも、結局は「一緒にいたい」という想いが、二人を同じ方向に導いてくれた。
そしてその思いは今日永遠になる。
だからこそ今日、ここに立っている。
そして、もうすぐ彼女が扉の向こうから歩いてくる。
瑞樹は、チャペルの扉の裏に立ち、深く息を吐いた。
耳の奥で鼓動の音が響く。手を取り合った父の手が、ほんのりと温かい。
「瑞樹、ほら、緊張してない?」
「してるよ……でも、扉が開いたら歩くだけだよね?。。。きっと大丈夫だと思う」
「それならよかった」
バージンロード――それは、それまでの人生を象徴する道。
入口から祭壇までの一歩一歩が、瑞樹の一年一年を表している。
父と歩くその道の先に、大也が立っている。
「扉、開きます」
スタッフの合図とともに、ゆっくりと扉が開いていく。
眩しいほどの光が差し込んだ。
瑞樹の視線の先には、真っ直ぐに立つ大也の姿があった。
誰よりも信頼する人、人生を共に歩んでいくと決めた人。
純白の光が差し込む中、瑞樹が父と一緒にバージンロードを一歩、また一歩と進む。
一歩目——保育園の入園。二歩目ーー小学校の入学式。三歩目——初めて失恋。四歩目——大学進学。五歩目——社会人一年目。そして六歩目——大也との出会い。
それはまるで、一年ごとの記憶をなぞるような時間だった。
途中、父がほんの少し手を強く握る。その温かさが、瑞樹を現実に戻してくれる。
やがて、祭壇の前へ。
父は立ち止まり、そっと瑞樹の手を離す。
「行ってこい」
その言葉に、瑞樹はこくりと頷くと、大也の元へ歩み寄った。
「……頼むぞ」
父がそう言って、大也に瑞樹の手を渡す。
「はい、必ず」
大也の声は小さく、それでいてとても力強かった。
二人の目が合い、笑顔がこぼれる。
ダイヤモンドの輝きが、チャペルの天窓から差し込む太陽の光を受けて、ふたりの未来を祝福するように瞬いていた。
大也は、瑞樹の手を取り、ゆっくりと微笑んだ。
「ようこそ、未来へ」
扉は開かれた。
今、この瞬間から――ふたりの新しい人生が始まる。
ダイヤモンドは記憶を閉じ込める宝石。
だからこそ、これからもふたりで、少しずつ記憶を重ねていく。
扉が開いたあの日のことを、きっと何度でも思い出せるように。
その先に続く未来へと、ふたりで歩いていくのだ。
=30日後に成功するサプライズプロポーズ・完=
登場人物
大越大也(おおこしだいや):埼玉県大宮市出身の30歳、趣味はドライブと釣り、行動力が有り何事もまずはやってみるタイプ。先日多数の友人の助けを借りてプロポーズを成功させ新しい人生の岐路に立っている。
松本瑞樹(まつもとみずき):神奈川県出身29歳、高校時代は名門野球部のマネージャーだったお姫様キャラ。慎重派でよく考えてから行動するタイプ。先日大也からのプロポーズを受けて晴れて婚約者になった。
瑞樹の友人の茜(あかね):29歳、瑞樹とは高校時代からの地元の友人で気心が知れている。大也とも面識が有りる二人の応援団。
茜の友人古田あやか(ふるたあやか):茜の大学時代の友人、ブリッジ銀座のスタッフでJJA公認ジュエリーコーディネーター年間100組以上のサプライズプロポーズをプロデュースしている世話好きなキャリアウーマン。
山本健司(やまもとけんじ):大也の会社で同期の同僚、同期の中でいち早く結婚に踏み切った結婚に関する先輩。お相手は高校時代からの彼女。
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